第3章 涙
上古の探索者が辿り着いた都はまさに呼び名通りの場所である。
町中至る所に水路や舟や橋があり、空と水が美しい景色を作り出している。その景色を見るために訪れる旅人も少なくない。
しかし、ローズが訪れたのはそのためではない。たった一つの小瓶のためである。
「まずは宿だけど」
都に着いてからずっとぶらぶらしている。宿を探し回っているが営業している宿がなかなか見つからないでいる。事件の影響だろう。
ローズを含め人々は知らない。事件がつい昨日解決したことを。それもたった一人の呪術師の手によって。それを知るのはほんの後だが。
「……困ったなぁ」
足を止め、ぼんやりと呟く。朝の爽やかな青空に白い雲、太陽に照らされて煌めく水。いつもなら多くの人々の心を魅了する風景も今は悪夢によって色褪せてしまっている。
「とりあえず」
突っ立っていてもどうにもならないので再び歩き始めたが、その足はすぐに止まった。
「……!!」
背後から自分を呼ぶ声がし、振り向いた。
振り向いた先にいたのはよく知る少年。
「エルル君」
地下図書館の旅途中で出会った少年で11歳ぐらいの外見に短髪で左の横髪先端を紐で束ねている。首には秘石のついたチョーカーとリュックと腰にウエストポーチ。腰に巻いている布には頭のように見える円と広げた手のように見える線に魚のヒレがついた胴体が描かれている。
彼は秘石や宝石などの石を削ったりして形を整える石職人である。時には加工した石を使ってペンダントや指輪を作ったりもしている。そのため「石に輝きを与える者」という二つ名を名乗っている。
それだけではなく父親が今は少ない水辺を生活の場とする水の民で母親は普通の人という特別な血筋でもある。
「久しぶり、ローズちゃん」
エルル・ハーフレットは笑った。
「エルル君は大丈夫? あの怖い夢」
大変な事件が起きている最中とは思えないほどの笑顔に思わず訊ねてしまった。彼が事件のことを知らないはずはない。
「大丈夫だよ。元々あまり眠らない方だから夢を見る前に起きてしまうんだ」
お気楽に答えてまた笑った。
「そう、ところでエルル君はどうしてここに?」
「この都はお気に入りだから」
挨拶が終わり、ローズは再会の際のお決まりの質問をし、エルルは答えて変わらず青い空を見上げた。
「それは私も。でも今回はちょっとした用事もあるけど」
つられるように空を見上げるもすぐに視線をエルルに戻した。
今回はただの観光ではない。ちょっとした用事を抱えての訪問なのだ。
「用事?」
「えぇ、ところでどこか休める宿はないかしら」
エルルは気になったのか訊ねるもローズは答えずに困っていることを口にした。いつもならすぐに決まっているはずの宿が決まっていない。
「宿かぁ。僕が泊まってる所を紹介しようか?」
本当なら疑問を追求したいだろうが、言葉を呑み込んで協力を申し出た。
「ぜひ」
思わぬ言葉に即返事をした。
「ただ、値段が高くて寝るだけしかできないけど」
すぐに案内はせず、言葉を濁らせた。
今の時期、まともに宿泊できるのはとんでもない宿ばかりなので自分が泊まるだけならいいが、人に紹介するとなるとまた別問題である。
「それでも大丈夫」
野宿でなければどこでもいいので即返事をして、案内を促した。
「だったら案内するよ」
エルルは歩き出し、裏通りに建つそれなりに大きい宿に案内した。
「本当に高かったけど、野宿よりはよしとしないと」
スーツケースを床に置き、部屋の唯一の調度品であるベッドに座って窓の外を眺めた。
「さてとどうしようかな。少し休んでから」
窓から目を離し、床のスーツケースに視線を向けた。
あれこれとこれからの予定を巡らせている時にノック音が聞こえ、視線をそちらに向けた。
「ローズちゃん」
ドアの向こうから聞こえてきたのは宿を紹介してくれたエルルの声だった。
「どうぞ」
ドアが開いていることを伝え、相手を迎えた。
「久しぶりに再会したからいろいろ話したいなぁと思って」
ドアを開け、ゆっくりと室内に入り、ローズの隣に腰を下ろした。
「会った時に言ってた用事って?」
再会した時にローズが口走っていたことを思い出し、真っ先に訊ねた。
「それは……」
口で説明するよりも見て貰うのが一番と思い、スーツケースから例の小瓶を取り出し、エルルに差し出した。
「瓶? 何も入ってないね」
何か入っているのかじっと目を凝らすが何も見えない。自分の目がおかしいのかと思いながら隣に座るローズにそろりと自分の意見を口にする。
「そう見えるけどそうじゃないの」
エルルの反応が面白かったのか笑みを浮かべながら答えた。
「……?」
まだ意味を解さぬ顔でローズと小瓶を見比べた。
「中には懐かしき涙の水が入っているの」
「……懐かしき涙ってどこにでもあるようでどこにもない泉だよね。見つけるのは難しくて耳をよく澄まさないといけないって聞いたことがあるけど」
ローズの言葉を耳に入れてから小瓶を振ってみるが、中身が入っているような音はしない。
「そう、その泉の水。これが偽物の可能性はあるけど、買ったお店はとても親切だったからたぶん大丈夫。これが呼び水となって泉を引き寄せるはず」
エルルに小瓶を返して貰い、スーツケースに片付ける。
「でもどうして青涙に? あの泉はどこにでもあってどこにもないって聞くけど」
片付けるローズの背中にさらに訊ねる。わざわざこんな遠い場所に来る必要はなかったのではないかと少し思ったのだ。再会できたのは嬉しいが。
「これを手に入れた先が青涙だったらしいから。ここに来れば出会えるじゃないかと思って」
ベッドに座り、深くもない理由を簡単に答えた。簡単だが、旅人のこだわりが見える。
「へぇ。僕も行きたいなぁ」
「いいよ」
全ての事情を知り、エルルに残ったのは好奇心。
当然、同行を申し出る。ローズはあっさりと受ける。別に独り占めする必要はどこにもないのだから。むしろ、感動を共有する方がずっと楽しい。
「ありがとう。でもどうやって見つけるの?」
まだ見ぬ未知のものに心を躍らせながらも現実的なことを訊ねる。存在は知っているが見る方法は知らない。
「これを初めて見た時、とても惹き付けられたの。その時の感覚がきっと引き寄せてくれるはず。今までの旅もそうだったから」
当のローズも知らない。だがそんなことは今回が初めてではない。幾度もそんなことはあり、越えてきた。
この世界は見えるものと見えないものが存在している。見えるものは地図や情報で辿り着けるが、見えないものは時にそれだけでは辿り着けない時がある。その時に必要なのは感覚や心などの同じく見えないものだったりするのだ。
「……そっか。ところでローズちゃんの旅は順調?」
あまり追求はせず、これまでのことを訊ねた。
「えぇ、変わらずいろんな所を訪れてる」
そう言ってエルルと別れた後のことを話した。地下に眠る本達、奇憶の街で遭遇した特別な日、その他にもいろいろと話した。何度も訪れたこともある場所でも時間の移ろいで姿は変わる。旅人はそれが楽しくて旅を続ける。
「へぇ、いろんなことがあったんだねぇ」
聞き手は飽きることなく耳を傾けている。
時間は楽しく過ぎていき、夜が訪れる。いつものにぎやかで陽気な夜ではなく静かで怯えの夜。事件が終わったとも知らず。
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