第4章 見えぬ泉、心響く音
 
 
 夜が深まり、水の青も闇に沈み、月もなく白く浮き上がる雲しか存在しない世界。
 何もかもが静かになり時間さえ止まっているかのように思える世界。
 全ての音さえ消えた世界を歩く二つの人影。
「……ここに」
 灯りを前方に向けながら小声で隣に声をかける。
「……ここ?」
 エルルも灯りを前方に向ける。
 広がるのは空の闇と同化した建物と水路と自分達が立っている橋。夜の街を歩き回った末に辿り着いた場所。曲がり角を何度も曲がって着いたのは廃れた場所。
「ここに。感覚がそう言ってる。とても静かでどんな小さな音でも聞こえるし」
 ローズは手に持っていた小瓶を見る。何度も目的地に導いた一番頼りになるものがここを示している。間違いはないはず。
「じゃぁ」
 エルルは小声で促す。
「……」
 ローズはゆっくりと小瓶のふたを開けて水を注ぐかのように傾かせ、すぐにふたをした。
 見た目は空の瓶を傾かせている間抜けな様子だが、実際は違う。そのことは二人の顔を見れば明らか。
「……」
 二人は目を見開いたかと思うと閉じて静かに突っ立っている。
 姿無き泉に落とされた雫は音を奏でて広がる。耳に入る音ではなく心に響く音。どんな人の心にも迫る音。胸がぎゅっとなる深い感情の音。言葉を必要としない音。
 そんな二人を取り巻く時間は止まらずに流れていく。
 
 夜から朝に変わると同時に音は静かに消え、全てが現実に戻る。
「……エルル君?」
 光が差し込んで互いを確認できるようになり、エルルの様子を見て心配の色を浮かべた。
 彼の瞳には一筋の涙が流れていた。
「大丈夫だよ。とても懐かしかったから。たくさんの水の民と暮らしていた時のことが思い浮かんでもういない人達で」
 涙を拭ってから答えた。思い出にしか存在しない優しい昔が湧き出して胸をいっぱいにした。
「そう。私もとても懐かしかった。エルル君のように思い出す何かは無かったけれど」
 思い出すものが無いローズは少し羨ましそうにエルルを見た。
「……目に見えないから幻に思えてしまうけどこの胸に感じたのは確かなことで本当にこの世界は不思議なことばかりね」
 手に持ったままの小瓶を掲げて見ながら呟いた。今見ても何かが入っているようには見えない。先ほど体験したことも幻のように思えるが、胸に残る懐かしさは確かな事実であることを証明している。今も中身が残っているのか空なのかは分からない。
「そうだね。ローズちゃんがばら姫の所有者だったことには驚いたけど」
「そうね」
 エルルはローズと初めて出会った時のことを思い出していた。あの時ほど驚いたことはなく、世界は広いようで狭いと感じたものだ。それはローズも同じく感じていた。
 二人はいつの間にか消えた灯りを手に宿に帰った。
 
 ローズは宿に戻るなり、旅支度をした。昨日来たばかりだというのにもう出発するつもりでいる。本当に慌ただしいことである。
「さてとハカセに会いに行こうかな」
 今回体験したことを話したくてたまらないのと留守の理由が知りたいから。何かあったのではないかと。
 ローズが部屋を出た時、隣部屋に泊まっていたエルルと遭遇した。
「エルル君も出発?」
 自分と同じように旅人姿のエルルに訊ねた。
「うん。この街を少し見て回ってからどこかに行こうかなと思って」
「そう、私は知り合いに会いに行こうと思って」
 それぞれの目的を話し、二人は挨拶をして別れた。また再会できることを願って。
 
「早くハカセに会いたいなぁ」
 ローズはあの賢い歴史家に会いたくて歩みを速めた。
 
 彼女がハカセに会うのは一週間目の朝。
 その間の船旅で今回の事件が思ったほどあっさりと解決したことを知る。
 それも有名な呪術師が関わっていることも知り、納得する。
 そして彼女もまた多くの人達と同じように疑問を抱かずにはいられなかった。
 疑問を解決するためにも知人に会う必要があった。