第16章 旅人の再会
 
 
 時の山を出発し五日目の朝、再び白歴。
 歴史の大家と会うことができた。
 海に面したこの地は、相変わらず絶景で雲と家々の白と空の青の対比が美しい。
 
「いるといいんだけど」
 とある家のチャイムを鳴らす。
「……誰ですか?」
 扉が開き、知的な子供が現れた。
「ハカセ、お久しぶり!」
 最上級の笑みをハカセに向けた。
「お久しぶりですね。ばら姫」
 ハカセもまたいつもの柔和な笑顔で来客を迎えた。
 そして、ローズは中へ案内された。
 
 部屋は相変わらずの様子に戻っていた。
「……きちんと片付けてたのに跡形もないのね」
 もてなしで出されたカップに口をつけた後、部屋を見渡した。
「それはともかく、どうだったんですか?」
 ローズの向かいの席に座っているハカセは自分の部屋よりも気になることを訊ねた。
「うん。あの後……」
 ハカセと別れてからのことを話した。その中には、ニコルのことも含まれていた。
 ローズは約束を守り、新たな名前については話さなかった。
「……ニコル、ですか。どうしているか気になっていましたが、元気そうでよかったです。……森の声を聞く者ですか、彼女にピッタリですね」
 本当に嬉しそうであった。彼女が森の声を聞く者であると聞いてもさほど驚いてはいない。まるでそうなると知っていたかのような落ち着きだった。
 ローズの話はさらに進み、世界の中心まで話し、そして終わった。
「とても素晴らしい所だったんですね」
 感想を述べ、一息つく。
「えぇ。ところで、天空城の方はどうだったの?」
 次はローズが聞き手になる番だ。
「なかなか面白かったですよ」
 空中庭園の見る人によって違う色の薔薇。庭園にいた番人のこと、翼を持つ馬のこと、天空城に住んでいた人々のこと。ハーブという者が起こした厄介なこと。そして薔薇。全てのことを話した。天空城が地上にいる生物の進化や滅亡を管理し、地上に生物が現れる以前からあり、地上に降りて生物にいろんなことを教えたりしていた。火を使うことなどを教えたことを。
「へぇ、でも」
 ローズは感心しながらも少し顔を疑問に変えた。ハカセの話を聞きながら自分の中で何か思いついたようだ。
「あなたの言いたいことは分かります。私も感じたことですから」
 ローズが考えを察したハカセはうなずき、カップに口をつけた。
「そう。……生き物を管理している者を管理しているのは誰なのか。大きな力がこの世に存在しているのは感じるけど、天空城一つで言い切ることが出来るのか疑問ね」
 考えを言葉にし、ハカセの言葉を待った。話す彼女の横顔は上古の探索者ではなく大賢者だった。
「私もそう思います。同じものを見ていても見ている人によってはそれぞれ違うように見えることは多くあります。そのような存在なのではないかと。それとも存在自体が幻なのか存在しているようで存在していないのか」 
 うなずき、夢に住む知人に話したことをもう一度話した。
「でも、その疑問番人とかには話さなかったのでしょう?」
 答えを何となく知りつつも訊ねた。
「えぇ、話すべきではないと思ったので。話せば天空城に関わるものが不明確なものになってしまうので」
 ローズの思ったような答えを返した。あの大変な事件の中で今の質問はあまりにも呑気なものでしかない。もしかしたらしたとしてもまともな答えは返って来なかったかもしれない。答えとは近いようで遠くにあるものなので。
「そうね。世界は狭いようで広いし見えているものが全てじゃない。私が見た世界の中心だってもしかしたら天空城と同じように存在が曖昧なものかもしれないし」
 多くの旅を経験した彼女の口からだととても納得のできる言葉である。
「まぁ、せっかくですから薔薇を見てみませんか?」
 先ほどまでの真剣な空気があっという間に払われた。ここでいろいろ考えたとしても答えがすぐに出るわけではないので。
「えぇ、ぜひ!!」
 大賢者の顔があっという間に崩れ、好奇心でいっぱいになった。
「では、少し待てて下さい。持って来ますので」
 ハカセは席を外し出て行った。今では寝室の飾りとなっている例の不思議な薔薇を持って戻って来た。
 小さな花瓶に立っている薔薇をテーブルの真ん中に置いた。
「これですよ。どうですか?」
 訊ねつつ、席に着く。
「……あなたには不思議な色に見えたと言っていたけど。私にはこの世にないほど美しい白薔薇に見える」
 じっと薔薇を見つめながら自分の目に映る物を話した。
「……白とは何色にも染まっていない色。自由な旅人の色ですね。あなたがあなたという」
 ローズは話を聞いた後、ふと笑みを洩らした。
「そうね。さすが、あなたね。本質が見えたなんて」
 と言った。ハカセが見た不思議な色は本質を見る者しか見えないのである。「これからあなたはどうするの?」
 薔薇から視線を外し、ハカセの知識深い顔を見つめた。
「当分はいつものように過ごしますよ。この薔薇が必要となる時まで」
 ハカセは答えた。ただのお土産として貰ったにしてはあまりにも特別すぎる。どこかできっと使う時があると考えているのだ。
「そっか、私も旅生活に戻るつもりよ。見たい物があるし、今までに行った所も行こうと思ってるのよ。きっと違うように見えると思うから」
 旅はローズにとって自分の存在を示すものであり、生きる道でもある。
「ふと思い出したのだけど、いいかしら?」
 ローズの脳裏にある旅の思い出が蘇った。
「何ですか?」
 カップを手にハカセは穏やかに訊ねる。
ばら姫を手に入れた時、あなたが私に言った言葉覚えてる?」
 ローズは思い出したことを言葉に変換し、伝えようとする。答えを期待しつつ、ハカセの顔を見る。
「私の好奇心は偉大な発見に導くと」
 ローズは薄れかけていた記憶を改めて思い出した。       
 ハカセは確かにローズに言っていた。いつもの柔和な笑顔で。
「……そうでしたね」
 カップを置きながら穏やかにうなずくだけだった。こちらもすっかり思い出していた。
「どうして?」
 ローズはうなずくハカセの思いが知りたい。 
「私はただあなたの行く道がまだ続いていると思ったんですよ。偉大なことに繋がっていると。そして、それはこれから先もずっと」
 ハカセはローズの瞳をじっと見つめながら言った。
「……道ねぇ」
 ローズはカップの水面を見つめながら呟いた。
 自分がとてもハカセの言うような人物ではないと思っている。これは誰でもそうだと思うが、褒められるとその褒められた自分が別人のように思うのだ。
「……ハカセの言ったことは当たってた」
 認めないわけにはいかない事実。この歴史家の目には何が映っているのだろうか。もしかしたら普通の人が見えないものが映っているのかもしれない。
「そうですか」
 ハカセはただそれだけしか言わなかった。
「……私、あなたと知り合うことができて幸せよ」
 ローズは心底そう思っていた。いつも何かと力を貸してくれる。この歴史の大家にはかなわないと思ってしまう。
「私もですよ。あなたのような素敵な人に知り合えて幸せです」
 ハカセは微笑みながら言った。
「私もよ」
 今まで幾度となく出会いがあったが、ハカセとの出会いほど貴重なものはなかったと思う。
「そうでもありませんよ」
 ハカセはやんわりと否定した。
「そうかしら。それよりもこの世界にはまだまだいろんなものがある。平然と姿を見せてるものや潜んでるものとか様々」
 ローズはカップに口をつけた後、しみじみと言った。
「そうですね。知るべき者が知り、行くべき者が行く。そうやってそれらは知られるんでしょうね」
 ハカセもしみじみとローズの言葉に答えた。
「私達がただ見逃しているだけなのかもしれない。それはずっと前から存在していたけど誰もそれに目を留めなかったそれだけかもしれない」
 ローズはカップをソーサーに置きながら言った。
「かもしれませんね。見えているものが全てではないですからね。見逃しているものは多くあるでしょうね」
 ハカセはカップに口をつけた。
「そうね。移り変わるこの世界で本当に変わらないものってあるのかしら」
 ふとローズは小さなため息と共にそんなことを口走った。
「明日が今日になり今日が昨日になり昨日が昔となる時の流れがこの世に存在する時間というもの。しかし、それが全てではないと思いますよ。この世に絶対はありませんから」
 カップをソーサーに置きながら静かに心の内にある言葉をゆっくりと声にした。
「そうね。その時の歯に囓られなかったものが存在するかもしれない」
 これから出会うであろう様々なことを思いながら言う彼女はすっかり上古の探索者の顔をしていた。  
「そうですね。でも、真実と虚実はこの世に存在しないものだと思いますよ。この世にあるのはそのものの存在、事実だけ。真実か虚実なのかはそれに触れた者が決めることですから」
 柔らかな言葉は上古の探索者のワクワクの心を少し冷やしてしまった。彼女がいい気分にならないと知っていても彼女だから口にした自分の考えである。
「あなたらしい言葉ね。でもそれは逆に言うと人によって真実にも虚実にもなるし、人の数だけそれらが存在するということじゃないかしら。でないと、つまらないでしょ」
 ハカセの言葉を理解し、その上で自らの考えを口にする。彼女が旅を楽しんでいるのは多くの真実と虚実が世界に満ち、それに触れることができるからである。
「そうですね」
 いつもの柔和な笑みを浮かべた。
「ふぅ、すっかり話し込んじゃった。……とりあえず」
 ローズは話を打ち切り、立ち上がった。
「もう行くんですか?」
 立ち上がったローズに訊ねた。
「えぇ、まだまだ行きたい所があるから」
 ローズは笑んだ。
「そうですか。……お気をつけて」
 ハカセは引き止めるようなことはしなかった。
「うん。それじゃ、また……と忘れるところだった」
 と何かを思い出し、出て行こうとする足を止めた。
 そして、愛用のスーツケースから年季の入った本を取り出し、ハカセに差し出した。
「これ返すね。ありがとう」
 本をハカセに渡しながら礼を述べた。
「どういたしまして」
 ハカセは本を受け取った。
「それじゃ、今度こそ元気で」
 別れを言い、出て行った。
「お元気で」
 ハカセは去って行く後ろ姿に別れの言葉を言った。
 部屋は再び静寂に包まれた。