第7章 危機再び
二人の天才呪術師が本の呪いを解いたことを知って一週間と四日後、新たな変化が静かに訪れた。日常が突然、非日常に変化した。それはあまりに些細なことから始まった。通行人が考え事をしていた少年にぶつかったり、恋人が腕を組んだり、転んだ子供を助けたり、全ては些細なことから始まった。
「あらあら、わずか四日後でこの有様なんてあっという間ねぇ。街の出入りもできなくなっちゃったし」
朝の公園のベンチで魔女は楽しそうに辺りを見ていた。彼女の目の先には公園と言うよりは墓場に近い風景が広がっていた。老若男女問わず死体が転がり、苦しむ者もいる。彼女がそのような者達に救いの手を差しのべるわけがない。ひたすらこの自体を楽しんでいる。
「無事な人はどれぐらいいるのかしらねぇ」
小悪魔な笑みを浮かべながら楽しそうに人々の叫びを心地よく聴いている。
「前回の薬よりもずっとひどいわねぇ。死体になっても呪いが消えないもの。普通の解呪じゃ無理のようだし。組織の呪術師さんも大変ねぇ。どうするつもりかしら」
道々、子供を助けようとした呪術師が逆に呪いにかかり苦しんでいたり家族の死体に触れて呪いを受けた者、様々な姿を見たばかりである。呪いにかかっている者を探す方がずっと大変だろう。それぐらい前回よりひどい有様なのである。そのため都の出入りができないようになっている。この都自身が何とかしなければならなくなっているのだ。たとえ、外に出ることができたとしても他の街に追い返されるだろう。彼女と違ってまともな考えの持ち主である偉大な呪術師は何とかしようとしているだろうが、彼女は知らない。今の状況を楽しむのにいっぱいで彼に会いには行っていない。
「さてと散歩にでも行こうかしら。本当にいい日が続くわねぇ」
立ち上がり、多くの人間の死を知った地面をゆっくりと歩いて行く。とても楽しそうに。
「また人が増えたわねぇ。本当に上手にしてるわぁ。これならあっという間にこの都は滅びちゃうわねぇ。もうそろそろ彼の方に依頼が来るかもしれないわねぇ。でもそれも無理ねぇ。無事な人が少ないもの」
いつもにぎやかな通りは死人と苦悶の声を上げる人々で埋め尽くされていた。彼女はもうとっくにどのようにして人は呪いにかかりこれほどまでに数が増えたかを知っているが、どうにかしようとは思っていない。ただ、人々に触れないようにするりとすり抜け、裏道へと入って行った。
ゆっくりと裏道を歩きながら、街を歩いている間に感じた気配に意識を集中する。
これから始まろうとすることに心が躍り、笑みがこぼれる。
「あたしを呼ぶなんてそんなに遊びたいのかしら? 子猫ちゃん」
ふと足を止め、どこにともなく声を上げる。覚えのある気配がし、自然と声が高くなる。
「その通りだよ」
前方の物陰から一人の少年が現れた。色違いの目が不気味に光っている。
「……!!」
魔女の体が硬直し始める。キャッツの呪いだ。
彼女は慌てることなく解呪をし、すぐに呪いを相手の体に刻む。
「さすがだね」
体から力が抜けていく。完全に抜ける前に解呪をする。
「あら、あなたもね。久しぶりに楽しめそうね」
ますます心がウキウキしてくる。
これほどまでに気持ちが高揚したのは久しぶりである。いつもは依頼者のために危険を感じることなく楽々と呪いをかけるだけなので。
「それはありがたいね」
にやりと笑いつつ呪いをかけるが、互いに強力な呪術師のため呪いは届く前にすぐに消されてしまう。攻防が均衡している。
「もうこれまでだよ。やるべきことがまだあるからね」
いつまでも相手をしているわけにはいかないのでもうそろそろ終わりにしようと今までにない強力な呪いを魔女にかけた。届く前に消そうとするが、消すことができず魔女の身に宿った。
「……甘いわね」
性格故に解呪よりも呪いをかけることを選んだ。呪いを受ける瞬間、とてつもなく強力な呪いをかけた。呪いをかけ終わるなりすぐに解呪に取りかかったが呪いはすでに宿り体の自由を奪い、魔女の体はゆっくりと地面に倒れ込んだ。
「……このままにしておけばいずれ」
倒れた魔女を確認するだけで何もしなかった。というよりは何もできなかった。自分のことを優先しなければならなくなった。不意を突いた呪いに見事にかかり、壁に手を突かなければ立っていられなくなった。体から力が抜けていく。体を引きずるように壁をつたいながらゆっくりと離れた。
苦しむ人々が闊歩する通りを彼らを避けながら歩く呪術師がいた。
「すごい有様ですね。今頃喜んでいるでしょうね」
偉大な呪術師はあの不幸を喜ぶ人でなしのことを思い出していた。
この時までずっと屋敷に閉じこもっていた。元々彼は外出を好む性格ではないので今回のひどい有様を見たのは初めてである。
「規模も威力も以前よりも強いみたいですね」
放置されたままの死体を何度も見送りながら呟いた。
このままだとこの都に住む人間はあっという間にいなくなってしまうだろう。何とかする必要がある。
「……」
ふと裏通りに続く道の前で足を止め、じっと先を睨んだ。呪術師の勘が何かあると囁く。
「……行ってみましょう」
ゆっくりと足を進め、確かめることにした。
表通りと違って住む人も通り人も少ないのかとても静かだった。
何かを見つけたのか足を止めた。
「……魔女」
仰向けに少女が倒れていた。偉大な呪術師は慌てることなく彼女の側に行き、屈んで手首を取った。脈が小さくなり、顔色は青白く死人に近くなっているが、まだ僅かに生きている。
「どうしましょうか。このまま放置しておいても呪いは解けるでしょうが」
魔女が最後に放った解呪は意識が失っても効果があるものである。ただ、かけられた呪いが強いためかなりの時間を有するが。
「……事情を聞く必要がありますから」
厄介者を助けることに抵抗はあるが、今回の事件では彼女の力も必要となるので助けることにした。手首を握る手に力を込め、静かに目を閉じた。
握った手首からゆっくりと呪いが払われていく。
死人の顔に血の気が通い、安定した呼吸に力強く打ち始めた心臓、魔女の命はしっかりと繋がれた。
「……ふぅ、さすが」
手を離し、目覚めるのを待つことにした。呪いの天才の魔女に呪いをかけた輩には見当がつく。ますます厄介なことになったようだ。
「……ん、偉大な呪術師」
まぶたが震え、ゆっくりと目を開けて側にいる少年を確認した。
「本当にあなたはただではやられないですね」
目覚めた魔女に開口一番に言ったのは呆れた言葉だった。
「あら、当然よ」
ゆっくりと上体を起こし、不敵な笑みを向けた。
「ここでキャッツと会ったのでしょう」
何をしていたかはすぐに分かる。
「そうよ。今頃、子猫ちゃんどうしてるかしらねぇ」
立ち上がり、スカートの汚れを払い終わってから見せた顔にはなおも不敵な笑みが浮かんでいた。
「何かしたのですか?」
偉大な呪術師も立ち上がり、訊ねた。
「呪いをかけたのよ。今頃地面を這いつくばっているわよ。それよりあなたはどうするつもりかしら?」
楽しそうに笑みをこぼしながら訊ねた。
「とりあえず、この状態を何とかしようと思っています。キャッツのことはそれからです」
キャッツのことも気にはなるが、今やらなければならないことは苦しんでいる者を救うことだと考えている。それにそうする方が早くキャッツと対峙することができるだろうとも思っている。
「だったら早くすることね。あたしの呪いもそう長くは保たないだろうから。相手は違い目の民だもの」
肩をすくめながら答えた。
「そうですね」
適当にうなずいた。
「それで具体的にどうするつもりなのかしら?」
今の状況をどうするつもりなのか少しばかり興味があるのか訊ねた。
「一人一人を解呪するには時間がかかりますからね。一気に全ての人を解呪しようと思っています」
どうするべきかはすっかり頭の中にあるようで迷いがない。
「都一つを救うってわけねぇ。あなたなら都の一つや二つ大丈夫でしょうけど。少し疲れるんじゃなくて」
付き合いきれないというように少し呆れがあったが、彼女が偉大な呪術師の力を認めていることは確かなようである。
「かもしれません。しかし、しないわけにはいかないでしょう」
ため息をつきながら、魔女に答えた。途方もないことではあるが、それはしなければならないほど今の状況は悪い。この都に住む呪術師の多くがキャッツの呪いによって命を落としたり危機に陥っているのだから。
「そうね。とりあえず、公園にでも移動しないかしら? ここじゃ、座って見物なんてできないもの」
他の人の事情はどうでもいい上に手伝う気は全くないことを宣言して突っ立っている偉大な呪術師を促した。
「……あなたは」
いつものことながら勝手気ままな彼女の行動にため息を洩らしながらゆっくりと歩き出した。
二人は今朝、魔女がいた公園にやって来た。時間はすっかり昼過ぎになっていた。
「あたしはゆっくりと見学させてもらいましょうか」
魔女は当然のようにベンチに座り、見学を決め込んだ。
「……さてと」
魔女に何も言わず自分のやるべきことを始めた。いつものことなので口を挟む必要はないのだ。口を挟んだとしても彼女が何かすることはない。
「…………」
屈んでゆっくりと地面に右手を置き、目を閉じた。呼吸を整え、心を静かにする。
右手に力を注ぎ込む。作業はすぐに終わった。
「……ご苦労様」
座ったまま魔女は手を叩きながら都の救世主を労った。
「少し休ませてもらいますよ」
整った顔に少しばかり疲れを見せながら魔女の隣に座った。
公園の風景が変わっていた。相変わらず、亡骸は眠ったままだが苦しむ人から苦痛が消え、我を思い出し始めていた。公園での変化はこの都全体に広がっていた。自らの身に起きた変化に戸惑いながらも救われたことに声を上げ、涙を流し感じていた。救われた呪術師の中には何者かの解呪によって救われたことを知る者もいたが、深く考える余裕はなかった。
「……面倒なことをするわね。あなたなら媒体がなくてもできたんじゃなくて?」
死体だけとなった風景に興ざめしながら訊ねた。
「それはできますが、負担が軽くなりますから。まだ、この後に控えているものがありますから」
都を救うことができ、ほっとしている反面、犯人キャッツと会うことになるだろうと気を引き締めてもいる。
「子猫ちゃんね」
魔女は楽しそうに笑い、これから起こるであろうことを心待ちにしている。
二人が互いの役目を終え、体を休めていた頃、一人の違い目の民が裏通りを壁伝いに足を引きずりながら歩いていた。歩く度に体から力が抜けていく。何が原因なのかは分かる。
魔女の仕業に違いない。魔女から随分離れ、歩けなくなったところで壁にもたれながら崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
「……力が出ない。解呪を」
何とか力を振り絞ろうとするが、力が出ない。その上、身体に焼け付くような痛みが走る。
「……あの時」
苦しい中、忌々しいことを思い出していた。呪いに身を縛られる瞬間、魔女は強力な呪いを自分にかけたのだ。解呪を後回しにしても攻撃することを選んだのだ。
「……何とか」
何とかしなければならない。今自分が苦しいように相手も苦しい立場であることには違いない。早く、解呪をしてやるべきことをしなければならない。
「……やらなければ」
喘ぎながらも言葉を吐き、自分の決意を確かめる。
ここで死ぬわけにはいかない。少しずつ呪いに侵されてはいるが、まだ手立てはある。それを表すかのように目は死んではいなかった。むしろ今まで以上に輝きを放っていた。ここで朽ちるわけにはいかない。彼の生命の糸である違い目の民の力は切れてはいなかった。
ちょうど力を失った魔女に救いの手が差しのべられたところだった。
「あらぁ、一番のお楽しみが来たわよぉ」
ベンチに座っていた魔女が立ち上がり、楽しげに唇を舐めた。
「そうみたいですね」
少し疲れから回復した偉大な呪術師も立ち上がり、魔女の隣に立った。
現れたのは一人の少年だった。
「あら、無事だったのねぇ」
キャラキャラと嫌味な笑みを浮かべながらやって来た人物を迎えた。
「無事さ。やらなければならないことがあるからね。魔女も元気そうだね」
強気な言葉とは裏腹にうっすらと疲れが見え隠れする。呪いを解いてすぐに異変を感じ、その先を辿るうちに二人の呪術師に辿り着いたのだ。
「さすが違い目の民ということですか」
偉大な呪術師はじっと色違いの両目を見つめた。魔女の呪いは生半可なものではない。それを解いたということは並の力ではないものが働いていたからだろう。
「いい具合に二人が揃っていることだし」
じっと色違いの目を二人に向ける。
「あら、続きをしようってことかしら? 付き合うわよ」
楽しそうに笑み、やる気まんまの言葉をキャッツに向けた。
「いいや、やめとくよ。キミの呪いで疲れちゃったから」
首を振り、断るなり肩をすくめながらおどけたように言った。
「疑問の答えは見つかったのですか?」
二人のやり取りが終わったのを見計らって偉大な呪術師が言葉をかけた。
これからのことを知るのに必要な質問。
「もう少しかな」
はっきりとは答えず、はぐらかした。
「心が命じるままってわけね」
彼が言うよりも先にお決まりの言葉を言い、つまらなさそうな顔をした。
「そいうわけだね。今回はこれで帰るよ。休みたいから」
そうおどけて言うなり彼は二人に別れを言って去って行った。
「行っちゃったわねぇ。つまらないわぁ」
キャッツが去って一番に口を開いたのは魔女の残念な言葉だった。
「そういうこと言うのはあなただけですよ」
呆れの言葉を吐き、偉大な呪術師はゆっくりと自宅に戻る道を歩き始めた。
「……つまらない人ねぇ」
肩をすくめながら去って行く偉大な呪術師を見送った。こんな彼女の側にいれば毎回とんでもないことに関わることになりつまらない人にもなるが、本人に自覚は全くない。
呪いは都から追い出され、人々は正気を取り戻し、亡骸は手厚く葬られた。
都の出入りも自由になり再びいつもの日常が戻って来たが、二度の異変によって多くの呪術師は何が起ころうとしているのか何が原因なのか知ろうと動き始めたが、キャッツの正体までに行き着くことはできないだろう。それぞれの考えで二人は口を閉じ、都は自分達だけでの解決を望んでいるため正体に行き着いた時は本当に大変なことになった時かもしれない。
そして、近い将来偉大な呪術師が再びこの世界や人々の危機に出遭うだろう。魔女はまた厄介な関わり方をするだろう。それは未来のことであり、今ではないのでしばらく眠らせておけばいい。
キャッツに会ったその日のうちに偉大な呪術師は今回のことを手紙にまとめ賢人の華の都に届けた。
その手紙は出してから三日後、無事に相手に届いた。
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