第3章 二つの狂気の笑顔
 
 
「ふぅ、つまらないわねぇ」
 ベンチに座っている愛らしい外見をした少女がカップを手につまらなさそうに呟いた。多くの人は彼女を魔女と呼び、最凶の呪術師と認識している。
「今日も何も起きないのかしら」
 カップをベンチに置いてお菓子を頬ばりながら周囲を見回した。
 家や店が建ち並び、どこにでもある街の様子を見せていたが、ただ一つ違うのは彼女以外の存在である。
「つまらないわぁ」
 彼女がぼやく度に行き交う人々が地面に膝をつき、恐怖の声を上げてのたうち回る。
 それも一人や二人ではない。数え切れない人々が苦しみの声を響かせる。
「今日も来ないのかしらねぇ」
 周りをつまらなさそうに眺め回しながら言葉を洩らす。
 目の前に広がる光景に何も興味を示す様子がない。ただ、彼女の心を支配しているのはとある事件とその犯人のことだけ。そのためだけに何日も何度も待っているが、一向に進展しない。
「本当に退屈ねぇ。待つだけじゃだめだったかしらねぇ」
 今回待ってもだめならば、犯人を呼び寄せる何かをしなければならないと考え始めた。その考え中の表情は突然、楽しげな色に染まった。
「ようやくね」
 魔女は下唇を舐めながら目を爛々とさせた。
 彼女の視線の先には苦しむ人々の間をゆっくりと歩いて来る少年がいた。
 待ち望んだ人物がやって来る。これから起きるだろうことに胸が躍る。
 
「君がこの世界の主かなぁ」
 現れた少年はベンチに座る少女に訊ねた。
 彼の瞳にも少女と同じように狂気が浮かんでいる。
「えぇ、そうよ。あなたが歪みの者かしら、すっかり待ちくたびれたわ」
 カップをベンチに置いてゆっくりと立ち上がり、じっと少年を見た。
「そうだよぉ」
 口が不気味に裂け、気持ちの悪い声が洩れる。何人もの人がその声に心を震わせたが、今回は違う。
「面白いことになりそうねぇ」
 下唇をなめながら楽しそうに言葉を洩らした。
「その顔、つまんないなぁ」
 自分を恐れない魔女の顔に不満を抱くと共にこの夢を乱し始める。
 最初に乱すのはこの世界ではなく、この世界を作り出す人物。
「!?」
 突然、足を止めて自身の体を見る。足先から徐々に消えていっている。この世界に存在する自分を消そうとしている。これで何人も命を落とした。
「これでも楽しいのかなぁ。苦しそうな顔を見せてよぉ」
 表情が少し硬くなった魔女に嬉しそうに声をかける。
 彼女はすぐにいつもの狂気に戻り、歪みの者を見据えるも体は全て消えてしまった。
魔女にしてはあまりにもあっけない終わり。
「つまんない顔して」
 あまりのあっけなさにぼやき、周りの苦しむ人々を眺めた。もう少しすればここも消える。そう歪みの者は思っていた。
 その思いは愛らしい狂気の声で破られた。
「あらあら、つまらないのはこちらの言葉よ」
 背後から消えたはずの少女の声。歪みの者は振り向こうとするも体が動かない。
「あっ」
 体は動かないが、気配は感じる。この夢の主は存在していると。
「もう終わりじゃないでしょうね。もっと何かしてちょうだいな。空から何か降ってくるとか恐ろしい獣を呼び出すとかこの世界を消してしまうとか炎で全てを燃やすとか」
 魔女はゆっくりと歪みの者の前に立ち、口元を歪ませる。まだまだ遊び足りない。長く待ったため遊ぶ気満々である。相手がどうなろうが彼女にとってはどうでもいいこと。重要なのは自分の楽しみだけ。
「……夢は信じない限り現実を侵すことはないんだからぁ」
 魔女の呪縛を看破し、体の自由を取り戻して少し後退する。
「待った価値があるわねぇ」
 自由になった歪みの者を満足そうに見る。
 そして、二人は相手を苦しめようと様々なことを始める。
 風景にも変化が起きる。苦しむ人々は消え、空も不気味な色に変わっていく。
 歪みの者が魔女に傷を与え、呼吸を奪えば魔女が体を欠損させる。地を走り空を駆ける。
 互いに傷つき合ってもすぐに元に戻る。堂々巡りの戦い。
 
 互いに対峙する。同じ狂気の瞳を持つ二人。考えることは相手の苦痛をこの目にすることだけ。
「さてとこれでおしまいねぇ。さぁ、苦しんで叫びなさいな」
 向かいに立つ歪みの者に言い、いつの間にか手にある傘を開く。不気味な空から大量の雨が降り注ぐ。
「雨!?」
 ただの雨ではないと察し、対処しようとするが体が動かない。足下から地面に呑み込まれていく。何とか看破しようとするがどうにもできない。
 雨は容赦なく降る。歪みの者も急いで傘を出して堪えようとするが、ここは魔女の世界。魔女の楽しみだけが存在する場所で彼女以外が助かる理由はない。
「あっ」
 雨に打たれた傘は溶け消え、雨粒が歪みの者の体を焼く。痛みが体中に走る。言葉に表現できないほどの痛み。受けたことも与えたこともない痛み。
「あら、お天気になったわね」
 ゆっくりと雨がやんだ空を眺めてから傘を閉じた。閉じた傘はまた手元から消えた。
「あらあら、苦しそうねぇ。もう少し楽しませてちょうだいな」
 この上なく楽しそうに足を少し呑み込まれた侵入者を見て狂い笑う。
「あ……ああ」
 胸の奥からこみ上げる気持ち悪さ、押し寄せる痛み。
 ここは夢で信じなければ現実を浸食することはない。それを理解していても襲ってくる痛みを耐えることができず、思わず膝をついてしまう。叫ぼうにも声が出ない。
「苦しそうねぇ。あたしは魔女よ。覚えてちょうだい。もし、あなたが無事ならまた遊びたいわ」
 邪悪な笑みを浮かべるとますます歪みの者の苦しみが強くなる。
「……あ」
 人々の歪んだ顔を見て楽しんでいた彼自身の顔が歪み、魔女さえ見ていない。自身を包む痛みと苦しみに支配され、とうとう耐えられなくなって弾けて消えてしまった。
「あらあら消えちゃったわぁ。もう少し遊べると思ったのに。残念ね」
 先ほどまで歪みの者がいた場所をつまらなさそうに見た後、彼女は再びベンチに戻って優雅なひとときを過ごした。
 空は青空に戻り、行き交う人々は相変わらず苦しみ這っている。
 
 今回、歪みの者は恐れを与えられ、耐えられず消えてしまった。おそらくこれで事件は収束したと思われるが、確実なことは分からないまま時間は過ぎていった。
 
 目覚めの世界ではこの日の朝、上古の探索者が海に囲まれた小さな島を訪れていた。
 午後に歪んだ夢が解決するとは知らずに……。