第4章 歴史の大家と歪みの者
眠る夢に招かざる客が徘徊するようになってから随分、日が経つ。
相変わらずどこでも調査ばかりで何も分かっていない。
いや、分かっている人はいるが、解決までに導くことができないでいるだけ。何せ事件は眠りの世界で起きるのだから。
歴史家が多く住まう街、地図ではアリアノールと記されている場所、白歴。
そこに住まうある歴史家も今回の出来事に頭を巡らせていた。
朝の光が眩しく照らすのは、尋常ではないほど本や紙が散乱した部屋。
「……ニコル」
部屋の主ハカセの手にはには今日届いたばかりの手紙があった。
そこに書かれている内容はニコルが出会った悪夢と歪みの者の存在によって人々が命を落としていることとハカセが無事なのかを訊ねるものだった。ハカセを心配させたくないのか自身の不安は一切書かれていなかったが、ハカセには分かっていた。不安でたまらないことを。
「……」
手紙を読み終えたハカセは彼女に手紙を書き始めた。
自分は無事であること、夢で何が起きたとしても信じて存在を認めないようにすること、認めない限り現実を浸食することはないということ彼女が無事であることに安心したこととなどを書いて午前中に手紙を出した。
少しでも励ましになることを願って。
手紙を出した後、ハカセは帰宅してこれからのことを考え始めた。
「……とりあえず、ケイに会わなければ」
まず夢の人に会って前回からの状況を聞く必要がある。
話はそれからだ。汚い部屋の中、机に突っ伏して眠りに就いた。
汚れなき青空、無垢な白い雲、時折吹く風に揺れる草原。静かな湖。
いつもと変わらない風景。
「……待ちましょうか」
ハカセはゆっくりと草の上に腰を下ろした。
いつもと同じように。
しかし、今回はそうはならなかった。
「ふぅん、静かすぎてつまらないなぁ」
気味の悪い少年の声が背後からする。知らない声。
ハカセはゆっくりと立ち上がり、振り向いた。
「あなたが歪みの者ですね」
訊ねなくても分かる。
「へぇ、知ってるんだぁ」
空々しい声で感心するが、目は爛々と狂気に輝いている。
「えぇ」
うなずき、じっと彼から目を離さない。目が狂気に満ちていようとも額に走る傷が生々しかろうが、ハカセの心を凍らせるには足りない。
「今回は私の夢に来たのですね」
正体を知っているということは目的も知っていることになる。
それでも声には何も恐れはない。
「……そういうことだけど」
つまらなさそうにうなずいたと思ったらじっとハカセの顔を睨んだ。
「キミはどういう存在?」
今までのようにすぐに恐怖を塗りつけるようなことはせず、訊ねた。
「私はハカセと名乗るただの歴史家ですよ」
予想していた展開とは違うが、警戒は怠らない。
「ただのねぇ、ボクはキミをねぇ二回見たよぉ」
舐めるようにハカセを見ながら不快そうに言う。
目の前の人物を見るのは初めてではない。森と遺跡、それぞれ違う者の夢で見ている。違う人物がそれぞれ救いの者として呼び出した姿。二度となると気にはなる。
「……二回、ですか」
歪みの者の言葉に少し首を捻った。ハカセが確認しているのはニコルの夢だけ。まだ誰かいたのだろうか。思い浮かばないので考えるのをやめた。
「そうだよぉ。さぁてと」
気になることはあるが、お楽しみは忘れない。
湖が干上がり、空は不気味な色に染まり、雲は消え去る。草原は枯れ果て終焉を思わせる景色に変貌する。
「……」
変貌した周囲を見回すハカセの顔には焦りも不安も恐怖も無かった。ただ、状況を確認しているだけといった感じ。
「つまらないなぁ」
表情の変化が無いのが面白くない歪みの者はさらに景色を変化させる。
干上がった湖から世界が崩れていき、不気味な空が浸食する。ハカセの体が足から少しずつ景色に溶け消えていく。存在さえ消しかねない恐怖。それでもハカセの表情は何一つ変わらない。
「本当につまらない。怖くないか」
何の変化を見せないハカセに心底がっかりしている。
「夢は信じて存在を認めない限り現実を浸食することはありません。どんなに危機的状況だとしても」
どこかで聞いた言葉を口にする。その言葉がいっそう歪みの者を苛立たせる。
「よく知ってるねぇ。キミはただの歴史家と言ったけど、それは嘘だろぉ」
じっと舐めるようにハカセを睨み、奥に潜む何かを見つけ出そうとする。何か恐怖させる手掛かりを見つけようと。
「……あなたはどうですか? 夢だけの存在なのか目覚めの世界に存在する誰かなのか、それともまた別の存在なのか」
恐れのない瞳を向け、柔らかい声音で探りを入れる。自分の体が消えていっていることに注意を向ける様子はどこにもない。
当然、そんな探りに引っかかるほど容易くはない。
「そんなのどちらでもいいこと。面白ければねぇ」
がっかり顔がいつもの気狂いに戻り、ハカセを見た。
ハカセはじっと彼の様子を窺い、何かを読み取ろうとする。
「面白ければですか。本当にそれだけですか。意味がないようで意味がある。何かあるのではありませんか」
彼の言葉をそのまま受け取ることはせず、何かが見え隠れしているように思える。ハカセのマゼンタの瞳はじっと探りを入れている。
「それはどうだろうねぇ。どちらにしろ面白いことが一番だけどねぇ」
ハカセの講釈に興味を向けることはなく、ただ笑うばかり。
「……そうですか」
ハカセの方もそれ以上の言葉を紡ぐのをやめた。その時には体の半分がすっかり消えてしまっているが、相変わらず表情は変わらず、二人の間が膠着していた。
その空気を破る声が遠くから聞こえてきた。
「ハカセ!!」
夢の人ケイの登場である。ケイは急いでハカセの側に駆けて行った。
「またキミかぁ」
ハカセの側に立つケイを憎たらしそうに睨む。
「もう逃がさない」
いつもの穏やかな表情が険しいものに変わっている。初めて歪みの者と遭遇してから追い回し、発見することはできても捕まえることはできないでいた。
「逃がさないかぁ。面白いなぁ」
ケイの意気込みが滑稽に見えて面白げに笑った。
そんな彼の体が足先から少しずつ消えていっている。
「あっ」
ケイは慌てた。相手は逃げるつもりだ。何か手を打たなければ。必死に考えるも何も思いつかない。
「キミがここを知ってるようにボクもよぉく知ってる。分かるぅ?」
嫌らしく気味の悪い笑みを浮かべたかと思うと招かざる客は消えてしまった。
「……」
ケイはぼんやりと元の穏やかな風景の中、突っ立っていた。
「ケイ、大丈夫ですか?」
何も出来ず意気消沈しているケイに声をかけた。消えていた体はすっかり元に戻っている。
「あ、ハカセ。大丈夫だよ。ハカセは?」
声をかけられて我を取り戻し、ハカセが危機的状況だったのを思い出して無事を訊ねた。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
いつもの安らかな笑みを浮かべながら答えた。
「うん、良かった。それじゃ、行くよ。歪みの者を追いかけなきゃ」
ハカセの笑みに癒され、自分のやるべきこと、できることをするためにケイは動き出した。まだ、これで終わりではない。彼を追い出すまでは。
「無茶をしないように」
去っていくケイを見送った後、ハカセは目覚めた。
「ふぅ」
目覚めたハカセは体を起こし、辺りを見回した。
目にするのは散乱した紙や山になっている本ばかりの見慣れた部屋だった。
無事に目覚めの世界に戻ることができた。
この後、ハカセはいつもの歴史家としての日常に戻っていた。
深緑街に送った手紙は無事、三日目に届くこととなる。
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