第3章 二人の考え
 
 
「本当に久しぶり」
 澄み渡る白歴の青空を見上げる6歳ぐらいの外見をした少女。
 上品な服装に薔薇の髪留めで留めている金髪の巻き毛が時々吹く朝風になびいている。
「早く会いに行こう」
 彼女は爽やかな朝の歴史家の街を急いだ。
 
「いるといいんだけど」
 彼女が恐る恐るチャイムを鳴らした屋敷はこの街では一般的な白壁の屋敷である。
 しばらくして扉が開き、主が現れた。
「……ばら姫!」
 扉を開けるなり声を上げるこの屋敷の主ハカセ。
「お久しぶり、ハカセ」
 元気な様子を見て嬉しくなって笑顔になった。
「本当に。どうぞ、中へ」
 訪問の理由を聞くことなく彼女を中に入れた。
 
 ローズが案内された場所はいつもの居間である。
「……相変わらずね」
 思わず笑った。ある遺跡で大変な目に遭っていたというのにこの人は何も変わらない。
 部屋中に紙が散乱し、本は山を作っている。人が座る椅子にも浸食している。
 穏やかで賢いハカセの唯一の弱点は目の前の惨状だろう。
「本当に毎回、申し訳ありません」
 テーブルに溢れている本を片付けながらいつものように謝った。
「気にしてないから。それより、聞きたいことがあるんだけど」
 いつものように椅子に載っている本を床に置いてから座った。
 知りたいのは一週間前に訪れた地下図書館について。
「何ですか?」
 ローズが地下図書館を訪れたことを知らないハカセは用件を訊ねながら椅子に座った。
「ハカセ、あの名前の与えられなかった遺跡に行ったことがある?」
 もう答えは予想できているが、一応訊ねてみる。
「……ありますが。もしかして」
 答え、訊ねられた理由にはっとする。
「そう、私も訪れたのよ。遺跡の下に眠る場所に」
 うなずいた。今でも思い出すことができる。あの美しい世界と恐ろしい現実を。
 それを前にしてハカセは何を思ったのか。
「そうですか。どうでしたか?」
 ローズと同じように相手の考えが知りたいのか訊ねた。
「恐ろしいの一言だけしか思い浮かばない。綴られている文字に何かを感じて、呪いじゃないのは確かなんだけど。ハカセは?」
 思い出すのは呑み込まれたこと。あまりにも美しく儚い世界の虜になり、多くの人達の仲間入りを果たそうとしていた。それを思い出す度に背筋が寒くなる。
「そうですね。何もかもが分からないのが残念に思いました」
 ハカセはローズと違って地下図書館に対する恐怖はなく、知りたいことが知り得ないということが不満そうだった。
「……確かに」
 恐れのないハカセを相変わらずだと思いながらうなずいた。
 本当にこの人の苦手なのは片付けだけだと周囲を見回した。
「ただ、あの世界が意味があるから存在しているということだけは感じました。存在しているものに意味のないものはありませんから。ただ、この世界は目に見えているものが必ずしも目の前に存在してるとは限らない世界ですからあれもまた最初から存在していないのかもしれませんが」
 地下図書館でキッドに話したことを彼女にも話す。
「おかしくて矛盾だらけの世界だから」
 肩をすくめた。この思い人の世界がおかしいことはよく知っている。だからこそ上古の探索者をしているのだ。
「えぇ、何がどうあってもおかしくありません」
 ハカセもうなずいた。これまでにもいろいろ出会ったことがあるので全てが不可能には思えない。
「本当に。分からないが分からないままなのが嫌な感じだけど」
 不満はそこにつきる。様々な場所を旅している彼女にとって今分からないことが次に知ることができるとは限らないから。
「案外、あっさりと分かって些細なことかもしれませんよ」
 ハカセは柔和な笑みで言った。これまた地下図書館でキッドに言った言葉を。
「それも少し残念ね」
 少し笑いながら言った。あんなに不思議な場所の存在理由が些細なことだとあまりにも残念過ぎる。
「そうです。よかったらこの本を読んでみませんか」
 残念そうにしているローズを見てあることを思い出した。
 あの長い時を得た本のことを。
「この本は」
 分厚い色褪せた赤色の表紙には題名も著者名も書かれていない。
 彼女は表紙をめくって最初のページを見たかと思うと奥付を確認しだした。
 そしてすぐに納得と驚きの顔に変わった。
「ハカセ、この本って」
 大賢者であり、上古の探索者として様々な知識や場所を訪れたことのある彼女は答えを知りつつもハカセの口から正解を聞きたかった。
「そうです。百年ごとに刊行されている本です。キッドから貰ったんです」
 奥付に書かれてあったのは刊行された日付だけ。二百年前の日付。
「……歴史の上を歩く者から。そう」
 キッドのことはよく知っている。彼から情報を得ることも少なくない。改めて多くの文字が蠢く紙に目を落とす。表情はすっかり好奇心一色である。
 好奇心の顔がページが進むごとに困惑の色に変わる。
 そして、最後のページを読み、本を閉じる頃には疑問一色の顔になっていた。
「……何というか、文章じゃないみたい。確か、噂だと百年ごとに刊行されているという話だったから。まだ、あるのよね」
 思うことはあるのだが、言葉として上手く表現できない。分かるのはテーブルに置いたこの本が謎だらけということだけ。
「えぇ、おそらく。数はそれほど無いとは思いますが」
 ローズの前にある本に目を向けながら答えた。本について知ってはいるが、正確に全てを知っているわけではないので曖昧である。
「あるのは噂程度の情報だものね。ハカセはこの本に書かれていること分かってるの?」
 ため息を吐き、ハカセに訊ねた。自分は分からなかったがもしかしたらと。
「それはまだ。もう少し、読み込む必要があるかと」
 期待していたハカセは首を振り、言葉を濁した。
「そう、ハカセでも手強いのね」
 少し驚いた顔になり、本を見た。自分以上に様々なことを知っているハカセが手こずっているとは思わなかったので。
「えぇ、文字がただの文字で言葉になっていませんから。意味を持っていないというか」
 分からないなりにも得たものはあるらしく本を開く度に感じる感触を話した。
「そうね。ハカセの言いたいことはよく分かる。はい、ありがとう」
 強くうなずき、本をハカセに返した。
「……さてと」
 思いがけない出会いをしてかなりの時間を過ごし、すっかり遅くなった。
「もう行きますか」
 本を受け取ったハカセは立ち上がったローズに声をかけた。
「えぇ、ハカセと話せたことだし。いつものように行こうかと」
 立ち上がったローズは愛用のスーツケースを手にした。
「……また面白い話を待ってます」
 にっこりといつものようにローズに言葉をかけた。。
「えぇ、また」
 ハカセの笑顔にいつものように答えてから出て行った。
 
「ふぅ」
 ハカセと別れたローズは息を吐きながら空を見上げた。
 すっかり時間は朝から昼になっている。時間は自分が思うよりずっと早く進むようだ。
「きっとどんなに大変なことが起きても世界は変わらないだろうなぁ。あんな恐ろしいものが今も変わらずあるんだから」
 ふと視線を前に向け、ぽつりと呟いた。
 彼女の横を忙しそうに人々が横切っていく。これが世界。あんなに亡骸が眠っている所もあるのに今立っているこの場所にはそんな人はいない。何も変わらない。
「……変わらない限り私の生活も変わらない」
 ローズはゆっくりとこの街を出て行った。
 旅をするために。