第3章 海の先、記憶の奥
 
 
 二人の旅人は海人の国に向かう船の上にいた。
 朝の爽やかな風に潮の匂いを乗せて空を渡る。雲は船と競争をすることなくゆっくりと流れている。
 
 ハカセとナディは甲板のベンチに座ってのんびりと空と海を眺めていた。
「ねぇ、どうして僕の言葉を受けてくれたの?」
 昨日のことを思い出しながら遅い質問をする。
 舞い上がる気持ちが落ち着いて思ったのは見ず知らずの自分を信じたハカセの神経に対しての疑問だった。
「この世界では外見と中身が一致しないというのは当たり前のことですが、目を見れば分かりますよ。その人がどのぐらいの時間をどのように過ごしていたのか何を抱いているのか」
 当然のことのように答え、柔和な笑みをナディに向けた。
「そっか。それでハカセは僕の目に何を見たの?」
 初対面の時の探る目を思い出し、興味で訊ねた。
「長い時を過ごしたかのような憂いと賢人のような賢さを見ました。何より悪い人ではないと思いましたから」
 言葉を選ぶことなく即座に答えた。
「そっか。互いに触れない方がいいことはあると思うけど、君は何をしているの? ただの骨董好きでもなさそうだよね」
 答えだけではなく、骨董屋でのハカセと店の主人のやりとりを思い出し、ますます興味を抱いた。
「一応、歴史家をしています」
 隠す理由はどこにもないのであっさりと自分の身分を明かした。
「へぇ」
 言葉は納得しているがハカセを見る目は納得していないのか探る目を向けた。
「しかし、水の民に関してはかなりの縁があるみたいで」
 思わず、ここ最近の水の民ばかりに言葉を洩らした。
「それはどうして?」
 ハカセの言葉に眉を動かした。
「実は指輪に出会う前に『青の記憶』という本に出会いました」
 事の発端である一つの本について口にし、反応を窺うようにナディの顔を見た。
「……『青の記憶』、かぁ」
 呟く言葉は驚きや興味ではなく過ぎ去った時間に抱く懐かしさを感じさせた。
 ハカセがそれを見逃すはずはない。
「これは歴史家としての勘ですが、作者はあなたではないですか?」
 今の状況が本の内容にあまりにも酷似しているために思ったことを口にした。何より見えない何か、巡り合わせや縁を感じたというのが一番の理由である。
「その通りだよ。作中の案内人も僕だよ」
 隠すことなくあっさりと答えた。
 そもそもハカセがキッドから貰った本の内容は、不治の病の青年が病で亡くなった恋人に貰った水の民の至宝と思われる宝石の指輪を形見とし、水の民の遺跡に行こうという約束を果たそうと街を出ようとした時に不思議な少年に出会う。少年の髪は銀髪で白波のように美しく、深い青の瞳は深海を思わせ、彼は案内人になり、遺跡に導き生きていた水の民に会わせ、楽しい時を過ごす。その時に飲んだ不思議な飲み物によって青年の病は治り、案内人は街まで青年を送ってからどこかに消えた。物語としての幻想もあるが、現実かもしれないという所々の細かさのある本だった。
 ハカセが気になったのは水の民ではなく案内人の少年だった。本から感じた憂いと賢さをナディにも感じ、案内人がしていた指輪をしていたことで確信した。
「実際の話も同じだよ。名前が違うぐらいで青年がリアスじゃなくてコリン。恋人がミアじゃなくてシアってぐらいだよ」
 海の遙か先を眺めながら色褪せた記憶を蘇らせる。
「そうですか」
 憂いのある横顔から言葉少なくうなずくだけだった。
「書きたくなったんだ。あの出会いを誰かに知って欲しかったのかもしれない。コリンさんは旅が終わって数十年後別の病気で亡くなったんだ。病名も治療法も分かっている病気でコリンさんはまた病気になるなんて不幸だと笑ってた。もう、手遅れでたまらなかった」
 蘇った記憶は楽しいものばかりではない。出会いがあれば別れもある。それがこの世界である。
「その思いが私をあなたに引き合わせたのですね」
 ナディの悲しみで綴られた本が巡り巡ってハカセの元にやって来て今この出会いがある。まるでこうなることが当然だったかのように。
「そういうことだね。この世界、何がどうなるか分からないね」
 この仕組まれたかのように具合の良い出会いに楽しそうに笑った。
「そうですね」
 ナディにつられてハカセも笑った。
「また久しぶりに本でも書こうかな」
 冗談なのか本気なのか分からない軽い口調で言い、笑った。
「本をですか」
 笑みが収まったハカセは真意を聞きたそうな顔でナディの横顔を見た。
「うん、大切なことを忘れないようにね。ハカセと出会ったこととか」
 明るく答えるもどこか寂しさを感じずにはいられない表情を浮かべた。
「それは嬉しいですね」
 穏やかな笑みと共に答えるだけであまり深いことを追求することはなかった。
 そして、二人は雑談をしてから昼食を食べに船内に入った。
 
 長いようで短い船旅は二週間で終わりを迎えようとした。
 水上での日々は意外に退屈はしなかった。
「……ようやく到着だね」
「そうですね」
 二人の旅人は昼食を終えてからずっと甲板で到着を待っていた。
「……これからですね」
 ベンチに座っているハカセが立って海を眺めているナディに言葉をかけた。
「そうだね」
 ハカセの方に振り向き、うなずいた。
 これで旅が終わったわけではない。旅はこれからなのだ。
 船は海人の国、水華に入港した。