第2章 上古の探索者、地下図書館へ
 
 
 水華を出発してから二週間と六日。上古の探索者は再び思跡の国のあの遺跡の前に立っていた。
 ローズは静かに天を仰いだ。爽やかな朝の空。視線を前に向ければ正体不明の遺跡。
 崩れた柱に時の長さを感じるも空と合わせて見ればとても絵画的でもある。
「……さてと」
 ローズはスーツケースを握り直してゆっくりと遺跡に入って行った。
 鍵の相棒がこの遺跡にいることを願って。
 
 遺跡内を迷うことはなかった。ただひたすらまっすぐ進むだけでよかった。
 とても静かで自分の足音しか響かない。
「……?」
 突然、足を止めて後ろを振り返った。自分以外の足音が聞こえた気がした。
 それは気のせいではなかった。
「ラッセ君!」
 こちらに向かって来る者がいた。それも知り合いが。
「ローズちゃん」
 相手の方も声をかけたのが何者なのか分かったらしく答えて急いでローズの所にやって来た。
「お久しぶりだね、ローズちゃん」
 ローズとの再会を喜んだ10歳ぐらいの外見をした彼はラッセル・ワルセル。名前を記す者でローズが世界の中心へ向かう旅の途中で知り合った少年である。彼は感覚では明確だが言葉にすると逃げてしまう目的、おそらく世界の裏側を求めて旅をしている。
「本当に」
 出会った時と変わらず元気な様子のラッセルに笑顔で答えた。
「あれから目的地には着いたんだね」
 二人が出会ったのはそれぞれの旅の道が交わったほんの少しのことだけだったが、忘れていない。
「えぇ、ラッセ君の方は?」
 ローズも彼の旅のことは忘れてはいないし、この遺跡に興味を抱いていたことも覚えている。
「僕はまだまだかな。それでローズちゃんはこの遺跡で何を?」
 少しため息をつきながら答えてから改めてローズのことを訊ねた。
「この遺跡の奥にある扉の鍵と思う物を手に入れたから行ってみようと」
 道の先に目を向けながら答えた。
「へぇ、良かったら一緒に行ってもいい?」
 興味を抱いたラッセルは同行を申し出た。
「ぜひ。一緒に」
 断る理由はどこにも無いので承諾し、二人は揃って遺跡の奥に向かった。
 
「ようやく」
 ローズは感慨深く目の前に立つ秘石素材の扉を見つめた。
 ずっと気になっていた。それが今分かるかもしれない。そう思うと緊張と好奇心で胸がいっぱいになる。
「ここが」
 ラッセルも緊張したように扉とスーツケースから鍵を取り出しているローズを見守った。
「開いた」
 ローズの望んだ通りになった。扉は開いて先の道が現れた。
「何があるんだろう」
 ラッセルは興味深そうに扉の先に広がる世界を見つめた。
 ローズは鍵を再びスーツケースに戻した。
「ラッセ君」
 ラッセルに声をかけてからゆっくりと扉の先に進んだ。
「うん」
 ラッセルも彼女に続いて扉をくぐった。
 
 扉の先は予想していたよりずっと明るく下へ続く長い階段も確認することができる。
 二人はゆっくりと扉の先に進んだ。
「……本が多いね」
 ラッセルが両側にある本棚に目を向けながら前を歩くローズに声をかけた。
「そうね。それに」
 ローズはうなずくと共に本棚の側に横たわる風化した骸に目を向けた。
 明らかに顔色が不安と少しの恐れがあった。
 時々、階段に座り込んで休んでは歩く。下へ下へとひたすら進む。
 
 何とか目的地に辿り着いた。そこは予想していた通り本の巣窟だった。
 存在するのは本だけではなく人間のなれの果ても転がっている。
「地下図書館ね」
 ローズは並ぶ本棚の間を歩きながら果てしなく並ぶ本を眺め回った。
「すごいなぁ」
 ラッセルも眺め回す。
 その中で二人はあることに気付いた。
「……誰かここに来たのかな」
 亡骸の様子を何度も目にして浮かんだ疑問をローズが口にするよりラッセルが先に言葉にした。
「そうね。こうなってしまったのが本のせいなのは確かなようだし。見た限りでは。それが側に無いということは誰かがここに来て本を棚に戻したということかもれない」
 ローズもうなずき、本を戻すラッセルを眺めた。
 骸骨の側に本が転がっていることが多く、本が無いのはほんの一部である。そう考えると本が何かの原因になっていると考えるのが普通で本が転がっていないのは誰かが棚に戻したと考えられる。
「うん。それがどれぐらい前なのかは分からないけど」
 本を戻してから彼はうなずき、風化した亡骸の方に目を向けた。
「……そうね」
 適当にうなずきながらも頭の中ではたった一人もしかしたら訪れただろう人物を思い浮かべていた。あの柔和な笑みの歴史家を。
「どうする?」
 ぼんやりと考え事をしているローズにこれからのことを訊ねた。
 何となくここが不安のない素敵な場所でないことだけは確かである。
 本が眠る場所ですることはただ一つ。
「本を開いてみようと思うのだけど。こんなに本があるから」
 するべきことは本を開いて中を見るだけ。ローズは気になっていた。こんなにも多くの人が訪れる魅力はどのようなものなのかと。
「そうだね」
 うなずくも何も行動はせず、ただ本を適当に棚から抜くローズを見守るだけ。まだ何かが起きるような気がして動けない。
「……著者も題名も無いけど、どんな本かしら」
 ゆっくりと分厚い赤表紙の本を確認してから本を開いた。開いた瞬間、意識が全て本に吸い込まれてしまった。
 溢れる美しさと遙かな幻想、文字で作られているとは思えないほどの世界。自分が本を読んでいることさえ忘れ、指からはページをめくっている感覚が消えていく。
 世界の様々な美しさと不思議さに出会ったことがあるが、全てが色褪せていく。
「……ローズちゃん」
 ラッセルは本を読むローズの姿が尋常ではないことに心配し、声をかけたが、聞こえていない。
 ページをめくる手には一つの乱れもない上に減っていない。どれだけめくっても減った様子が感じられない。何か危険を感じた。
「ローズちゃん」
 もう一度、声をかけてから強引に本を閉じた。そこでようやくローズの意識が現実に戻った。
「……ラッセ君」
 じっと自分を心配そうに見ているラッセルに目を向けた。
 手には閉じられた本がある。
「大丈夫?」
 もう一度訊ね、ローズの無事を確認する。
「えぇ、ありがとう。あなたがいなかったら私も」
 息を吐き、手にある本と側に転がる骨達を見ながら言った。自分も下手をしたら彼らの仲間入りをしていたと思うとぞっとする。
「それでどうだった?」
 本を棚に戻しているローズに訊ねた。
「とても恐ろしいほどに美しかった」
 本を戻してから答えた。本を片付けた今でもあの幻想は強く心に宿り、思い出すと不思議さと儚さを感じてしまう。
「僕も読んでみようかな」
 恐ろしさと同時に興味を持ったラッセルは近くから本を抜き取り、読み始めた。
 ローズが体験した感覚をラッセルも味わうが、彼はしばらくして本を閉じた。
 幻想に惑わされることのないように。
「……ラッセ君?」
 本を閉じたラッセルを心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ、ローズちゃん」
 本から顔を上げてにっこりと笑った。
「でも、この本は恐ろしいね。綴られている文字に力を感じる。町や人の名前のように文字に込められている何かを。何か呪いみたいな感じだけど」
 名前を綴る時に感じる込められた重みを本から感じた。それは親愛や尊敬ではない何かだった。決して心を委ねてはならない何か。
「そうね。でも呪いの気配は感じられない」
 彼の言葉に深くうなずいた。その文字に先ほどまで囚われていたので余計に実感するも呪術師としての力は反応しない。
「……一体ここはどういうものなんだろ」
 本を片付けてから改めて周りを見渡す。
 人々が何もない遺跡だと相手にしなかった場所にとんでもない物が埋まっていたのだ。もう名前を与えられなかった遺跡として片付けることはできない。
「みんながみんな鍵を持っているわけじゃ無さそうだから当時は開放されていたかもしれないし、管理人の分だけしか鍵が存在しないのかもしれない。でもどうして今忘れられているのかは分からないけど」
 ローズも辺りを見回してから答えたのは現実的なことだった。
 あまりにも亡骸が多いことから考えられるのは過去はかなり認知されていたということ。それがなぜ風化したのかは分からないが。
「うん。でも、幻想を人に見せることにどういう意味があったんだろ。幻想に取り憑かれた人は自分が死んだことも分からないはず。だったらこの場所は忘れられている方がいいのかもしれない」
 家族や友人がいただろう亡骸を見つめながら少し寂しそうに言った。ここに存在する物は家族や友人や自分の命さえ捨てさせるほどの物なのだろうか。ラッセルには分からなかった。
「そうね。忘れられている方がいいのは確かだと思うけど。今までこうして存在していたということは必要とされてたから。きっとこの先ずっと」
 ローズもラッセルと同じ瞳で亡骸を見つめた。知らない方がいいことが溢れているのは旅人なのでよく知っているが、ずっと知られずに過ぎ去るものは何もないと経験から分かっているので余計に胸が重くなる。
「こんな地中にいるから暗い気分になるのかも」
「そうだね。外に出ようか」
 すっかり暗い気分になってしまった二人は本に触れることより自分達の世界に戻ることを望んだ。
 二人はゆっくりと地上を目指して再び長い階段を進んだ。
 
「もうここには当分訪れないかもしれない」
 ローズは扉に鍵を掛けながら思わず呟いた。遺跡の正体を知ることができたので実りはあったが、それ以外は知らなくてもいいことだけだった。
「そうだね」
 鍵をスーツケースに片付けるローズを見守りながらラッセルもうなずいた。彼もまたここを訪れたいとは思っていない。人の目を狂わす文字が居座る世界には。
 二人は遺跡を出た。
 
 外の風景はすっかり変わっていた。温かな午後の光に時々吹く風。
 あの心地よい幻想より何倍も色鮮やかな世界。幻想は幻想である。掴もうとして掴めないもの。だが、目の前に広がる風景は感じ、触れることができる。同じなようで同じではない二つ。
「やっぱり、この世界がいいね」
 胸一杯に空気を吸い込んでからラッセルが声を上げた。
「そうね」
 うなずき、久しぶりに青い空と白い雲を眺めた。いつもは進む道の先ばかりを見ていたが、この時はとても空が見たかった。変わることなく存在する空を。
「さてと、僕はもう行くよ。とてもいい時間になったよ。ありがとう」
 気分を落ち着けてから礼と別れの挨拶を口にした。
 二人の道が交わるのはもうここまでだ。
「えぇ、こちらこそ」
 にっこりと別れを惜しみながらも笑顔で答えた。
 ここではもう別れだが、二人は旅人だからまたどこかで巡り会うこともある。寂しいが悲しくはない。
「うん。元気で」
「あなたも」
 二人はここで別れた。
 
「ふぅ、これからどうしよう」
 ラッセルを見送った後、ローズは一人空を見上げながら呟いた。
 見上げている内にある考えが浮かんだ。
「……会いに行こうかな」
 浮かんだのは一番頼りにしている歴史家に会いに行くことだった。
 地下図書館で感じた誰かの影はあの人に違いない。なぜかそう思った。
 もしそうであれば、あの人の考えも知りたい。
「……急ごうかな」
 ローズはスーツケースを握り直して歩き出した。
 進むべき道を見据えて。
 
 そして、上古の探索者は目的の人に会うのと同時に地下図書館の本達にも劣らない本に巡り会うことになるが、向かっている今は久しぶりに会うことに楽しくなっていて何も考えていなかった。