第1章 招かざる客
 
 
 鮮やかな緑、暖かな太陽、葉の隙間から見える澄み切った空。申し分ない美しい森。
 時々吹く風が葉を揺らし、音を奏でる。
 静かで安らぎの世界。
 
「ふぅ」
 本を閉じ、満足そうに空を見上げる女性。
 18歳ぐらいの外見に薄い金髪を両側に一つずつ結い薄青の瞳をしている。美人というよりは愛嬌があるという方が正しく、服装は動きやすい物を着ている。 
「散歩でもしよう」
 本を草の上に置き、立ち上がった。胸一杯に爽やかな空気を吸ってから歩き出した。
 今日も楽しい一日が始まると彼女は思った。
 その思いは突然の変化によって砕かれることとなる。
「うわぁ、緑ばっかりだぁ」
 横から少年の声がし、足を止めて振り向いた。
「君は?」
 いたのは15歳ぐらいの外見をしたボサボサ頭の少年。前髪から覗く額には生々しい縦の傷にその上を走る傷を塞ぐための糸。服装はきちんとしているが、気持ちが悪くなる雰囲気は隠し切れない。
 女性はすっかり少年の空気に呑み込まれたが、質問するべきことはする。
「歪(ひず)みの者」
 少年はあっさりと答え、ぬったりと笑った。
「……歪みの者」
 少年の名前を繰り返し、ゆっくりと後退する。顔は彼から目を離さずに。
 後退する足に感覚はなく、鼓動が速くなる。早くこの場から離れなければ。
「うわっ」
 あまりにも緊張と不安に満ちていたためか足が絡んで尻餅をついてしまった。
 しかし、すぐに体勢を立て直すことはできなかった。
「これは」
 左足に絡まった不気味な植物の蔓を見た。地面から伸びていることは確認できたが、強く絡まっていて外すことができない。
「外れない!?」
 焦っても外れない。むしろ絡む力が強くなっている。左足が少しずつ紫色に変わっていく。少年は気狂いの笑みを浮かべながらじわじわと近寄って来る。
「外れてよ」
 無駄な抵抗をひたすら繰り返して空しい声が辺りに響くだけだった。
 
「ここは爽やかな森だな」
 いつものように誰かの夢にやって来た夢の人。夢を生きる場所とする存在。
 外見は12歳ぐらいの性別不明の子供。長い髪を両側下のだんごと装飾品でまとめ、ゆったりとした服装をしている。
「散歩させてもらおうっと」
 子供は楽しそうに緑の葉を見上げながら歩いていた。
「??」
 しばらく歩いた所で足を止めて首を捻った。
 誰かの声が聞こえた気がした。
「気のせいじゃない」
 焦った女性の声が耳に入るが、すぐには動かなかった。
 なぜなら、他人の夢に自分が干渉して見ている人の心を乱してはいけないからだ。些細なことでも大事に至ることがあるから。ただ、知人の歴史家は特別だが。
 しかし、再び入ってきた声に普通ではない様子を感じ、声の場所に向かった。
 
「来ないでよぉ」
 外そうとするが、外れない。少年は近づいて来る。左足は動かない。どうすることもできない。
「その焦った顔、とーても面白い」
 女性の前に立ち、口が有り得ないぐらい裂け、目は狂いの光が輝いている。
 もう絶体絶命、そう思った瞬間だった。状況に変化が起きたのは。
「うわっ」
 声を上げたのは少年。横から飛び出して来た人物によって突き飛ばされたのだ。
「大丈夫?」
 突き飛ばした人物、夢の人は少年には目もくれず女性の前に屈み訊ねた。
「君は?」
 思わぬ事態に驚きつつも歪みの者から助けられて少しだけほっとしている。
「これを外さないとね。この痛みは夢だから大丈夫」
 夢の人は女性の変色した足に気づき、急いで外す。あれほど強く絡まっていたというのにあっという間に外れて自由になった。
「……ありがとう」
 色が戻っていない足をさすりながら礼を言った。
「どこかに逃げて早く目を覚ましたらいいよ」
 一言女性に言ってから立ち上がり、体勢を立て直した歪みの者を警戒する。
「あっ」
 何かを言おうと口を開いたが、近づいて来る歪みの者の形相に言葉を失った。
 常軌を逸した不機嫌な顔でやって来て子供の前に立つ。
「ボクの邪魔をするなぁ。邪魔をするならぁ」
 標的は女性から邪魔をした夢の人に変わった。
 地面から不気味な蔓が伸び、子供に巻き付く。
「邪魔ってこの夢は君の夢じゃない。ボクも君も干渉しちゃいけない」
 とんでもない圧力がかかっているというのに表情は変わらない。ここを生き場所としている者にとっては大したことではない。
「つまらないなぁ」
 その言葉が出た瞬間、巻き付いた蔓は燃え始めた。
 圧迫の痛みと苦しみに逃れられない熱。ここまでくれば死ぬかもしれないと怯えを見せてもいいのにそれがない。
 見守っている女性は不安で言われた言葉さえ忘れていた。
「助けないと。でも」
 助けたいとは思うが、何もできないことを知っている。どうすればいいのだろうか。こんな時、あの人がいてくれば。
 そう思った瞬間、背後から知った声がした。振り向いた彼女の表情は驚きと安心に変わった。立っていたのは彼女が望んだ人だった。
「ニコル、ここを離れましょう。目覚めれば大丈夫ですから」
 6歳ぐらいの性別不明の外見に艶のあるマゼンタのおだんごに上品でゆったりとした服装。右目にはブリッジ式のモノクル(片眼鏡)をしている。中身と外見が必ずしも一致するとは限らないこの世界で一番尊敬する人がそこにいた。
 ここは夢、思いが形を得ることができる場所。女性のその思いは形となって現れたのだ。
「……ハカセ」
 彼女は歩き出したその人について行こうと動き出した。
「何とか行った。もう少ししたらこの夢は覚める。だけど、あれはハカセ?」
 女性が行ったのを確認して安心しつつも気になることはあった。現れた人物のことだ。自分もよく知るあの人。どうしてここにいるのだろうか。自分と同じように夢を歩き回れるのか、彼女の知り合いなのか。どちらであってもあの人なら不思議ではない。そんなことを考えていた時、不気味な声が邪魔をした。
「苦しまないなぁ。ただの存在じゃないでしょ」
 あまりの変化のなさにとうとう存在自体を疑いだした。
「夢は夢だけど信じて存在を認めてしまったら現実を浸食する。信じなければ大したことじゃない。夢で起きたことを覚えていても命を失うことはないんだから」
 名前は名乗らないが、質問の答えとなることは口にした。
「ふぅーん。つまんないなぁ」
 心底がっかりした歪みの者は背を向けてどこかに行ってしまった。名前さえ訊ねなかった。それほど自分の楽しみ以外興味がなかったということだろう。
「……行った。何者だったんだろう」
 歪みの者が行ったことによって自由になった夢の人は安心し、薄れていく世界を見回した。この夢の主が目覚めようとしている。
「……ここを離れなきゃ」
 ゆっくりと森に向かって歩き出した。ここを抜けたらあの歴史家に会わなければ。
 
 一人救ったところで誰かが夢を見れば、また奴が来る。状況は変わりはしない。
 ……誰かが変えない限りは。
 
 彼女よりももっと早く歪みの者に出会った者がいた。賢人の華の都に住むある大賢者が。