第2章 地下図書館
 
 
 自宅を出発して一週間目の朝。辿り着いた遺跡は閑散としていた。通路とおぼしき所に立っている柱はことごとく崩れ、思い描くことでしか全貌を見ることができない。通路の奥にある宮殿は立派な形をしていた。素っ気ない造りではあったが年月によってそれなりの風格があった。
 この遺跡が発見された時はそれなりにもてはやされたが、特徴的なものが無いためすぐに冷めた。ただ、存在するのは奥にある開かない秘石素材の扉だけだった。
 いつ建築されたのかどういう者がどういう目的で建てたのか解明されていない。様々な建築家や歴史家が解明しようとしたが何も分からなかったため名前さえ与えられなかった。人々は名前を与えられなかった遺跡、名前のない遺跡と呼んでいる。存在を示すにはそれで十分と思われ、まともな名前をつける者は誰一人としていなかった。
 
「……ここが名前を与えられなかった遺跡」
 ハカセは目の前にある宮殿を見て呟いてから何の躊躇いもなく宮殿に入り奥へ向かう。眺めて楽しむものは何も無いので途中で時間を費やすことなくすぐに目的地に立つことができた。
 ハカセの前に立ち塞がったのは飾り気のないただの石扉のある小さな一つの鍵穴だけ。
 不思議な力を秘めた秘石素材の扉のため鍵でしか開けることができない。その鍵も今はハカセの元にある。
「…………」
 ハカセは背負っていたリュックから石扉と同じ素材と思われる無骨な鍵を取り出した。ゆっくりと穴に差し込み回す。カチッという軽い音がし、開いたことを知らせた。使い終わった鍵は服のポケットに入れてリュックを背負い直してから扉を開けて先に進んだ。
 
 内部は思ったほど暗くはなく下へ続く階段がはっきりと目で確認することができる。
 あるのは階段だけではなく、両脇の壁は本棚になっており、ぎっしりと隙間無く本が並んでいた。本を手に取ることはせず、ひたすら階段の終わりを目指して歩き続けた。
「……すごい数」
 階下まで並んでいる本に驚いたと思ったらところどころ本を手に転がっている骨達が目に入る。
「……本」
 人間のなれの果てに遭遇する度に惹かれるように立ち止まり本を拾って棚に戻していく。自分の部屋が本の乱舞で汚いくせになぜか拾いたくなってしまう。
「……どんな内容なんだろう」
 拾った本を棚に戻す度に内容が気になってしまう。題名や著者が書かれていないので余計に気になる。しかし、今は階段を下りきることが目的なので好奇心をぐっとこらえて道を進む。
 本の誘惑にも負けずに動かしていた足が突然、止まった。そのハカセの視線の先には階段に座り込む5歳ぐらいの一人の少年が映っていた。
「キッド!!」
 知った人物だったので思わず声をかけながら近づいた。
「あっ、ハカセ」
 声に気づいた少年は振り向き、やって来るハカセを迎えた。
「こんな所であなたに出会えるとは思いませんでしたよ」
 予想外のことに素直に驚くも嬉しそうに言った。
「うん、ちょっとした興味でここに来たんだけど。階段が長くて一休みしてたんだ。いろいろと行ったあとだったから疲れちゃって」
 側に立つハカセにいつもの悪戯っ子笑顔を向けながら答えた。確かに色の薄い瞳には疲れが少し見え隠れしていた。
 彼は歴史の闇に消えた本などをすくい上げ、多くの歴史家に資料として渡しているのだが、服装はそんな大変なことをしているとは思えない軽装にサンダルで薄い金髪のおだんごを布で包んでいる。膝の上にはいつも本を入れている袋が載っていた。
「それはご苦労様です」
 いつもお世話になっているハカセはにっこりと笑顔で労った。
「うん、ハカセもいるし。せっかくだから僕も一緒に行こうかな」
 キッドはゆっくりと立ち上がり、しっかりと鞄を肩に掛けた。
「えぇ、ぜひ」
 新たな旅の相棒を快く迎えた。
 二人は階段を下り続けた。
 
「……これは」
「すごいね。地下図書館って感じだね」
 下に着くなり二人はそれぞれ声を上げた。二人の前に広がるのは数え切れないほどの本棚と本達だった。どの本も新品というわけではないが、恐ろしいほどに傷んでいるというわけではなく、凜として棚に収まっている。
「……しかし」
 ハカセは歩きながら辺りの様子を窺う。棚に空白がある所は大抵、側に骨が本を握っていたりする。
「本当に静かだねぇ」
 にぎやかな彼はどこかつまらなさそうに辺りを見回した。
「そうですね」
 そう言いつつ本を一冊適当に棚から抜いて分厚い表紙をめくった。
「……ハカセ」
 キッドはじっと興味と心配の目で本を読み始めたハカセを見守った。
「…………」
 本を開いて広がるのは溢れるばかりの物語。
 この世に存在する言葉では表現しきれないほどの幻と儚さと感動。
 何がどうなったのか文字を追ってページをめくっているはずなのにその感覚が指から感じられない。頭と胸に迫ってくるのは文字の羅列ではなく、文字によって生み出された記憶。
 どれだけの枚数で表現しているのか分からないほどページをいくらめくっても未見の枚数が減らない。
「……すごいですね」
 ふとハカセの手が止まり、側で自分を見ているキッドに感想を口にした。
 あらゆる思いが胸に浮かぶが、そのどれもが今持っている言葉では足りない気がして口にできたのはたった一言だけだった。
「うん。でもハカセもすごいよ。この人達のようにならなかったんだから」
 そう言ってキッドは視線を人間のなれの果てに向けた。ハカセの様子を見れば骨達のことも分かる。
「たまたまですよ。この人達がどうしてこうなったのか分かりましたよ。この本を読んでいる時、何もかも忘れてしまいました。自分がどこにいて何をしているのか本のページをめくっていることさえ忘れていました」
 手にある本を見つめながら語る言葉は真剣だが、口調が穏やかなためそれほど大変なことのように聞こえない。
「つまり本に呑み込まれちゃったってことだね」
 元人間からハカセの手にある本に視線を向けた。
「そうですね。だから側に本があったのでしょう」
 よく考えるとここに来るまでに出会った亡骸の側には必ず本があった。その理由がようやく分かったということだ。
「でもハカセはこっちに戻って来た」
 理由を知りたそうな目をハカセに向けた。
「全部読み切るにはあまりにも時間がありませんから」
 大変な本だというのに普通に店で売っている本と同じ程度のようにさらりと言う。何が起こればこの歴史家は動揺するのだろうか。
「確かにそうだけど、すごいよ」
 当たり前な理由に毎度の言葉しか思いつかず、本を棚に戻すハカセを見守っていた。
「そんなことはありませんよ」
 にっこりといつもの柔らかい笑顔で誉め言葉をさらりと流した。
 キッドも多少興味があるのか適当に本を棚から抜き取り、ページをめくり始めた。
「……すごい。これは分かるよ。取り憑かれてしまうのが」
 本を読み始めてから数十分後、本を閉じながらハカセに感想を報告した。
 彼の心にもハカセと同じように言葉で表現できる以上の幻想が入り込み、読み終わった今でも居座っている。
「そうですか。もう読んでしまうとはさすがですね」
 途中で本を閉じた自分と違って読み切った彼に感心した。
「そんなことないよ。僕は仕事のせいだから」
 頭を振ってハカセの言葉を否定した。時間があればハカセも全てを読み切ることはできるはず。本に取り込まれなかったハカセなら。
「もう少し時間があればいいだけど。あまり長くいない方がいいみたいだし」
 本を戻しながら残念そうに言った。確かに時間を忘れるほど素晴らしいものではあるが、自分達には幻想に浸りきるほど暇な時間はない。
「そうですね。しかし、名前を与えられなかった遺跡にこんな地下図書館があるとは思いもしませんでした。それもこんなに大勢の人達が訪れていたとは。本当にこの世界は面白いですね」
 キッドの言葉にうなずき、亡骸の方に視線を向けた。今ではここがどれだけ人を惹きつける場所か分かり、名前がないことが不思議に思えてならなかった。数多くある不思議な遺跡の一つに足を運べたことが嬉しい。
「だね」
 キッドもハカセと何もかも同じことを思っていた。
「どうしてこんな図書館があると思う?」
 ふとうなずくばかりだったキッドが疑問を口にした。
「それは分かりません。存在するべきものだったからあるのだと思いますよ。どんな不思議なものだとしてもこの世界でそんなことは当たり前ですから。存在していて意味のないものはありませんから。もし理由が存在するとしたら案外些細なものかもしれません」
 言葉を選びながらゆっくりと自分の考えを言葉にする。
「そうだね。人が本を読む時は何かを得るためだから。もしかしたら幻想が必要だったからかも。人って生きるためには様々な幻想が必要だから。命を失うことになっても」
 ハカセの話を理解したキッドはうなずき、先ほど読み終えた本のことを思い出していた。溢れんばかりの美しい幻想、本に記されている文字によって生み出されているとは信じられないほどの世界。
「そうかもしれません。図書館の建設者だけでなく、本の題名や著者の名前が無いことだけが残念です。もしかしたら全て最初から存在していないのかもしれませんが」
 少し残念そうに言ったのはあまりにも些細なことについてだった。幻に取り込まれて骨になることに対しては何も恐れが無いようだ。
「そうだね」
 あまりにも些細なことを気にしているハカセに思わず笑ってしまった。こんなに亡骸が転がっているというのに気にするのは別のこととは。
「そうです。あまり長居はできませんから。あと何冊かだけ」
 強くうなずき、再び本棚に手を伸ばした。余りある時間があればこの場所に収められている本を全て読み切りたいだろう。本に向ける溢れる興味がすごく物語っていた。
「うん。僕もそうしようっと」
 キッドも本棚に手を伸ばした。
 二人は何冊か本を手に取り、心地よい幻想の世界に浸り時間を過ごした。
 キッドの予想通り、ハカセは本を何冊も読み切っていた。
 
「さて、もうそろそろ出ましょうか」
 何冊目かの本を読み終え、棚に戻してから同じように本を戻しているキッドに声をかけた。
 本を楽しみ始めてから随分時間が経っているはず。もうそろそろ現実の忙しい世界に戻る必要があると思い始めていた。
「そうだね。戻ろう」
 キッドも地上の空気や光が恋しくなり始めたので反対することはなかった。
 二人は来た道をゆっくりと進んだ。
 
「久しぶりという感じですね」
 地上の爽やかな空気を吸いながら扉の鍵を閉めた。
 何百年も図書館にいたわけではないが、それと同じような懐かしい思いが湧いていた。
「そうだね。やっぱりこっちがいいよ」
 安心したように思いっきり空気を吸い込みながら笑った。
 どんなに素晴らしいものに出会っても自分が現在立っている所ほど素晴らしいものはない。
「その通りですね」
 力強くうなずき、鍵をリュックに片付けてゆっくりと背負った。
 二人は地下図書館に思いを馳せながら遺跡を出て行った。
 
 外はすっかり朝から夕方に変わっていた。どんな素晴らしいものに出会っても時間だけはいつもと変わらず歩いている。それが少し残酷にも思えるが。
「もう夜になっちゃうね」
 青色とオレンジ色が同居した空を見上げながら言った。
「そうですね」
 キッドにうなずき、ハカセも空を見上げた。
 別れの時が近づいているようだ。
「あっ、忘れるところだった」
 何かを思い出したように慌てて鞄から一冊の本を取り出し、ハカセに差し出した。
「これは」
 かなりの厚さがあるが、色褪せた赤色の表紙には題名も著者名も書かれていない。今回は本ばかりである。
「ある意味幻想かな。これは百年ごとに刊行されてる本で。これは二百年前に書かれた物だよ」
 分厚い本を見て悪戯っ子の笑みを浮かべながら本について説明した。彼は入手方法については誰にも語らないが、仕事に対しての誇りだけは言葉の端々から読み取ることができる。
「確かに」
 本の奥付に刊行された日付だけが書かれてあった。
 この本についての情報はそれだけだった。あまりにも刊行されている冊数が少ないため噂しか知らない人の方が多い。噂があるということは誰かが本を読んだのか著者が広めたのかは分からないが、存在しているということでもある。ただ、内容までは語られていないのでいろんな憶測が広がっている。
「ありがとうございます」
 いつものように礼を言った。
「それじゃ、またね」
 いつものようにキッドも軽く挨拶をしてから自分のするべきことのために道を急いでいった。
「さてと、帰りましょうか」
 キッドを見送ってから本をリュックに片付けて帰りの道を急ぎ始めた。
 ハカセが自宅に戻ったのは、一週間目の昼過ぎだった。
 戻るなりキッドに貰った本を読み耽った。
 そして、この世界は見えるものかりではないことを改めて感じた。
 
 キッドに渡された本が新たな出会いを生むとはこの時は思ってもいなかっただろう。