第2章 深緑と安心と
白歴の港から出発し、一週間後に静華の国、地図ではアミアスと表記されている大陸に存在する港町に到着した。到着してすぐに深緑街を目指し、白歴を出発して八日後に辿り着いた。
「本当に変わらない」
広がる景色にほっとするハカセ。以前、住んでいた時と何一つ変わらない緑の街。
景色を一通り楽しんだ後、目的の家へと向かった。
向かう足取りもまた慣れている。
辿り着いた家は通りから外れた場所に建っている小さな家。以前住んでいた家で今は自分を慕う者が住んでいる家。住む人が変わると心なしか家の雰囲気も変わって見える。
「いるかな」
チャイムを鳴らし、主を呼び出すがドアが開く気配はない。もう一度鳴らすも全く変化はない。留守のようだ。
「出直そうか。もしかしたらどこかで会うかも」
ハカセはもう少し時間を置いてから訪問することにした。どこかに出掛けているかもしれない。時間潰しに通りを歩くことにした。もしかしたらそこで会うかもしれない。
通りをいつものように賑やかに歩く18歳ぐらいの二人の若者。
「貸した本をなくすなんて普通は有り得ないよ」
ニコルは呆れたように親友に何度目かの文句を言う。たまたま親友ロベルに貸した本が必要になり家まで取りに行ったのに借りた本人が無くしたと言うのだ。呆れない方がおかしい。
「だから悪かったって。見つかったらすぐに返すからよ。で、他のを貸してくれよ」
家からずっと謝り続けるロベルは何とか資料となる本を貸して貰おうと必死になっている。まだニコルは了承していない。
「本当にローは底なしの忘れん坊なんだから」
いつものことだと分かっているし何度も謝られているのでもうそろそろ許そうかと思った時、ニコルの足が急に止まった。
「本当に悪かったって。ニコル?」
必死に謝り続けるロベルは急に足を止めたニコルに不審に思い、彼女の視線の先を追った。
先にいたのは通りを歩く6歳ぐらいのおだんご頭の子供。
「……ハカセ」
驚いたように声を上げたかと思うと子供の元に駆け出して行った。
「おい、ニコル!!」
訳が分からないままロベルもニコルを追った。
のんびりと時間潰しに歩いていたハカセは聞き覚えのある声を聞いた気がして足を止めた。
「ん?」
振り向いた先には必死に走って来る若者二人。その内の一人はよく知る人物。
「ニコル」
今回の訪問の目的の人物だ。
「ハカセ!!」
ニコルは駆け寄るなり、膝をつきハカセに抱きついた。後ろではロベルが神妙な顔で見守っていた。
「ハカセ、無事で良かったよぉ。いつもいつも助けて貰って」
「いえ、ニコルが無事で何よりです」
今までよりもずっと会えたことに安心の満ちた声にハカセは柔和に答えてニコルを見た。
「ありがとう。で、今日はどうしてここに?」
ハカセを解放し、訪れた理由を訊ねた。あまりにも顔を見ることができて嬉しくて後回しになってしまった質問。
「あなたの顔を見たいと思ったこととちょっとした用事で」
いつもの優しい笑みを浮かべながら答えた。
「用事?」
内容を知りたく、聞き返す。もしかしたら何か力になれるのではないかと思いながら。
「えぇ。早枯れの花アムリスを予定より早く咲かせる方法を知りたいと思いまして」
ハカセは用事の内容を簡単に話した。
「咲くのにかなりかかったと思ったら一瞬で枯れる花だよね」
早枯れの花とは咲くのに平均五年かかる植物である。咲いたと思ったら一瞬にして枯れてしまうので遅咲きの花とも呼ばれている。当然、森の声を聞く者である彼女も知っている。
「えぇ、あの花の強烈な匂いが必要になったので」
ハカセは頷いた。アムリスの特徴は生長だけではなく香りも特徴的なのだ。形容できないほどの強烈な香りを枯れるまで振りまくのだ。あまりの強烈さに気絶することもあるという。
「任せてよ。何とか出来ると思うからさぁ」
ニコルはどんと胸を張って力強く言った。ハカセの力になれると知って何気に嬉しそうである。
「……オレも一緒にいいか」
今まで蚊帳の外だったロベルがようやく言葉を発した。
「ハカセ、親友のロベルだよ。彼も一緒でいい?」
すっかり忘れていた親友を紹介する。先ほどまで文句を垂れていたのが嘘のように機嫌がいい。
「構いませんよ」
穏やかな笑みを浮かべながら答えた。人数が増えても何も問題はないので。
「よろしく、ハカセ。会えて嬉しいよ。ニコルからいろんなこと聞いてたから」
ロベルは親しげな笑みを浮かべながら握手を求めた。ようやく親友がよく話していた尊敬できる人に会えるとは。話を聞いた時から会いたいとずっと思っていた。思わぬ時にその機会はやって来たようだ。
「よろしくお願いします」
ハカセも親しげに差し出された手を握った。
「さてと行こうか」
二人が顔見知りになったところでニコルは声をかけて歩き出した。
握手を終えた二人も彼女に続いた。
「じゃ、早速始めようか」
ニコルは自宅に戻るなりすっかりやる気になっている。先ほどまでのロベルへの不満もどこかに忘れてしまっている。
「おう」
元気に返事をしたのはロベル。しかも、親友が重大なことを忘れていることは言わない。忘れたままの方が都合がいいので。というか自身も忘れていたりする。
「ちょっと待ってて」
ニコルは花を咲かせるための準備を忙しそうに動き始めた。
ハカセとロベルはやることなく椅子に座って待っている。
テーブルに秘石を液体化した物が入っている小瓶をいくつも置かれていく。
最後に外に放置していた土の入った鉢植えをテーブルに置いて準備完了となる。
「さぁ、種を蒔いていいよ」
ニコルは早速、ハカセに指示をした。
「……分かりました」
ハカセは言う通りに種を二つ蒔き、土をかぶせる。
「さてと、花を咲かせる前に安全を確保しないとね」
そう言ってニコルは窓を全開し、用意した布を二人に渡した。
「……大丈夫なのか」
ロベルは渡された布を不安が浮かぶ顔で見ていた。
「大丈夫だって」
得意げな表情を浮かべたかと思ったら早速作業開始。
種に特別に調合した液体を流し込む。様々な液体を大量に流し込むせいか白い煙がゆらりと立ちのぼる。
「大丈夫かよ」
ロベルは尋常ではない鉢植えの様子に思わず声を上げた。煙が生まれるとは普通ではない。ハカセはじっと見守っている。
「大丈夫だって。しつこいよ、ロー」
二度目の訴えに不満を口にするニコル。森の声を聞く者である自分が間違うはずはない。
「これが最後だよ。鼻と口を覆った方がいいよ」
ニコルは布で鼻と口を覆いながらもう片方の手でたっぷりと液体の入った小瓶を傾ける。るうるうと液体は土に注がれ、じんわりと土に染み込んでいく。
「もうしばらくしたら芽が出るよ」
小瓶を置き、両手でしっかりと布を押さえる。
三人は静かに咲くその時を待った。
数時間後に二つの小さな芽が現れ、数分後には大きくなり茎と葉を生み、蕾が膨らみだす。
「……これからだよ」
ニコルの言葉通り、数十分後には膨らんだ蕾は開き、薄い赤色の花弁をたくさんつけた花が二つ咲き乱れる。それと共に三人に脅威が迫る。
「ぐはっ」
形容しがたい凄まじい匂いが溢れ出す。布さえ突き抜けて匂いは鼻に入り込んでくる。あまりの強烈さにロベルはむせてしまう。
「うわ」
ニコルは匂いに目をやられて猛烈に目を瞬く。
「……」
ハカセも少々辛そうな表情をするが、匂いに負けることなくやるべきことを遂行する。
花を摘み取り、自分が持って来た二つの小瓶にそれぞれ入れていく。小瓶には秘石の液体がたっぷりと入っている。手早くふたを閉める。
ふたが閉まると同時に部屋を満たしていた強烈な匂いが薄れた。余韻として残るだけで瓶から匂いが漏れることはない。瓶もこの花のために用意した秘石素材の物だ。
「……もう枯れてる」
ニコルは布を外すが、まだ目が元に戻っていないのか瞬いている。
花を摘み取った瞬間、あっという間に枯れてしまった。無理矢理、花を咲かせたせいもあるだろうが本当に早枯れの名に偽りなしだ。
「まだ匂いが少し残ってるな」
ロベルも恐る恐る布を外した。部屋に少し匂いは残っているが、気絶するほどではない。ただ、鼻に感覚が残っているので少しの間は嗅覚が麻痺したままだろう。
「……ニコル、助かりました」
ハカセはすっかり布を離し、二つの小瓶を眺め、ニコルに顔を向けて礼を言った。
「いいって。また何かあったら言ってよ。私に出来ることなら何だって力を貸すから」
弾けた調子で言うが、込める思いは本気である。そうさせるほどのことが二人の間にあったのだ。そのことについては親友であるロベルさえ知らない。
「ありがとうございます」
ハカセはいつものように穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「いいって」
変わらない笑顔にいつものように嬉しくなってますます力になりたいと思う。
「それで、ハカセはどうだったの? あの嫌な夢のあの不気味な奴には会った?」
ハカセが無事であることは訊ねる必要は無いが、事件に関わったかを確認したかった。絶対にハカセは関わったという妙な確信を胸に潜めながら。
「えぇ、会いましたよ」
ハカセは何でもないように穏やかに答えながら二つの小瓶を持って来たリュックに片付けた。
「会ったって大丈夫だったのか」
驚いて声を上げたのはニコルではなくロベルだった。ロベル自身は会わなかったが、会って顔色が悪くなっていく友人を見ていたので平気そうにさらりというハカセが信じられなかった。
「えぇ、ただ彼が何者なのかは分からないままです。魔女が事件を解決したと耳にはしましたが、本当に彼が消えたとは思えません」
街角で耳にした話を思い出す。人々は平和を喜ぶが、ハカセはどうもその気にはならない。むしろ、これから何かあるのではという疑念しかない。
「……そうだねぇ」
ニコルは頷き、黙り込んでしまった。
「この世界は何が起きてもおかしくないからな」
ロベルは肩をすくめながら言った。
「そうですね。だからこそ面白いのですが」
ハカセはロベルに頷き、柔和な笑みを浮かべた。素敵も怖いもみんな一緒だと言わんばかりの言葉。
「ハカセ、怖いものは無いのか?」
ロベルはちょっとした好奇心から訊ねた。答えてくれることは期待せずに。
「ありますよ」
「片付けだよね」
ハカセはロベルに答え、ニコルが弱点内容を言った。それなりに付き合いが長いのでハカセの弱い所はよく知っている。
「……片付け?」
予想外の答えに聞き返した。もっと何人かが怖いと思うようなものだと思っていたのが、まさか片付けだとは。
「ハカセの部屋は足の踏み場が無いほどだもんね。ここもハカセが住んでいた頃はひどかったよね」
ニコルは白歴のハカセの家や昔のことを思い出していた。
「えぇ、片付けや掃除だけは苦手なんです」
ハカセは少し困ったように眉を寄せながらため息を吐いた。
「……苦手って、面白いな」
ロベルは意外な弱点に思わず笑ってしまった。
「そうやって笑うローは、忘れ癖がひどいのが弱点だよね」
ニコルが余計な口出しをした。
「忘れ癖ってな。ってあの本思い出しぞ」
ニコルに不満顔を晒したと思ったらふと紛失した本の居場所を思い出した。
「だったら持って来てよ」
ニコルはすぐに行動するように言った。思い出している内に持って来て貰わないといつ忘れるのか分からないので。
「分かったって。じゃ、ハカセまた今度」
ロベルは椅子から立ち上がり、ハカセに挨拶をしてから部屋を出て言った。
「えぇ」
ハカセは笑顔で見送った。
「では、私もそろそろ」
ロベルが出て行ったのがきっかけとなったのかハカセも立ち上がった。
「うん、色々ありがとう」
ニコルは頷き、礼を言った。歪みの者関連でだいぶお世話になったので。
「いえ、私も助かりました」
ハカセはいつものように笑顔で答え、部屋を出て行った。
この後すぐにロベルが本を片手にニコルの元にやって来るが、それまでニコルは一休みをした。
「……はぁ」
この街で過ごしたハカセとの日々を思い出していた。今は住んでいる場所は別々だが、あの頃と同じように助けてくれている。その変わらないことがとても嬉しかった。
「おい、持って来たぞ!!」
ロベルの大声で懐古を中断され、ニコルは玄関に急いだ。
深緑街を出発したハカセは、訪れた時と同じ日数をかけて自宅に戻った。
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