第1章 疑問と感動と
 
 
 歪(ひず)みの者が夢から去り、一週間。中身と外見が必ずしも一致するとは限らないこの世界にもようやく平和が戻ってきた。
 歴史家の聖地、白歴にもいつもの穏やかな朝がやって来た。
 
 とある歴史家の家。
「……さてと」
 紙や本が散らかった部屋にいるのは6歳ぐらいの子供。マゼンタの髪のおだんごと髪と同色の瞳。右目にはブリッジ式のモノクル(片眼鏡)にゆったりとした服装をしている。性別不明のこの子供を知る者はハカセと呼んでいる。
 部屋を見回しながら何をしようかと考えている。
 そんな時、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
「誰か来たのかな?」
 ハカセは急いで玄関に向かった。
 
「お久しぶり、ハカセ」
 来客は同い年ぐらいの外見をした少女。金髪の巻き毛を薔薇の髪留めで二つに結び、上品な服装をしている。右手には愛用のスーツケースをしっかりと握っている。
 にこやかに笑う彼女は本当にハカセに会えて嬉しそうだった。
「えぇ、ばら姫も元気そうで何よりです」
 ハカセもいつものように笑みで迎え、自分しか呼ばない愛称を口にした。
「……妙な事件があったけど」
 ばら姫ことローズは最近起きた事件について訊ねた。関わっていると確信して。
「何とか大丈夫でしたよ。よければ、ゆっくりと話をしませんか?」
 ローズの確信は的中していた。彼女も何か話を持っているのだろうと察し、中に招く。
「えぇ、ぜひ」
 断る理由はどこにもないのであっさりと受けた。
 ローズが中に入ろうとした時、キンキンとした子供の声が間に入ってきた。
「珍しいなぁ。こんな所で大賢者ローズに会うなんて!!」
 現れたのは5歳ぐらいの子供。彼は歴史の上を歩く者と呼ばれ、歴史の闇に消えた本などをすくい上げては多くの歴史家に資料として渡している少年である。服装はそんな大変なことをしているとは思えない軽装にサンダルで薄い金髪のおだんごを布で包み、結んでいる布が垂れ下がっている。肩にはいつも本を入れている鞄を掛けていた。
「あなたはキッド。まさかこんな所で会うなんて」
 ハカセよりもローズが一番驚いた。ハカセのように度々会っているわけではないので。
「元気そうだねぇ」
 驚くローズを面白がりながらよく響く声で答えた。色の薄い目はすっかり笑っている。
「あなたは大丈夫だったの?」
 何事もなかったかのように元気なキッドに疑問を抱き、訊ねた。
「あの変な夢の事件でしょう。大丈夫だったよ」
 軽く答えるだけで見たのか見ていないのか肝心なことは言わない。
「無事で何よりです。それで今日は……」
 知りたそうにしているローズと違ってハカセは関心が無いのか追求はせず、ただ無事に安心し気になる訪問の理由を訊ねた。 
「うん。この本をハカセにあげようと思って」
 いつものように鞄から一冊の本を取り出した。
「……本ですか」
 受け取った本はあまりにも奇妙。布に包まれ紐で何重にも巻かれ、心なしか楽しい本ではない感触がする。
「そうだよ。ハカセなら大丈夫と思ってね」
 ハカセが本から何を感じたのか察したのか分かっても詳しくは言わず、ただ笑うだけ。
「大丈夫、ですか。ありがとうございます」
 キッドの言葉で自分が感じたことが外れでないことを感じつつも礼を言うことは忘れない。
「それじゃ、僕はもう行くよ。じゃぁ、またね」
 用事を終えたキッドはいうものように去って行った。
「何か風のようね」
 去って行く小さな後ろ姿を見送りながら言葉を洩らした。
「改めて中で話でも」
「えぇ」
 落ち着いたところで再びハカセはローズを中へと招いた。
 
 本の塔が至る所で建設され、紙が散らばり、足の踏み場を少なくしている。片付けても数分でひどい有様になるほどハカセは片付けなどが苦手でハカセの知り合い達にとっては見慣れた光景である。
「本当に相変わらずね。この様子を見るとほっとする」
 部屋を見回して呆れではなく安心を口にする。
 そして、椅子に載っている本を慣れた手つきで床に置いた。
「すみません。適当に座って下さい」
 申し訳なさそうに言い、貰ったばかりの本をテーブルに載せた。
「今回のことは本当に妙だった。私も歪みの者を見たけど、嫌な感じがした。心が怯える感じで今思い出してもぞっとする。でも」
 今でも鮮やかに思い出すことができる。あの狂った目が背筋をぞっとさせ、歩みを凍らせる。
「ハカセのおかげで救われた。あなたが夢に出てきて」
 助けを願った時に現れたのは一番頼りになる歴史家だった。
「そうですか」
 ハカセは彼女の話で納得ができた。歪みの者が自分を前に二回見かけたと言っていた理由が。
「あなたも事件に関わったんでしょう? 以前訪問した時、珍しく留守だったから」
 以前訪問した時のことを思い出していた。留守なのは滅多にないのでよく覚えている。
「えぇ、事件について知り合いと話していました。それから二日後ぐらいに会いました」
 夢の人ケイと事件について話していた時にローズが訪れたのだろうと思うと共に気狂いの少年を脳裏に浮かべていた。
「それで?」
 事件に関わっていたことは判明したが、肝心なのはそこからハカセが何を感じたか。
「問いかけても何も分かりませんでした。本人が名乗っている通りで」
 その時のことを思い出す。いくら質問してもまともな答えは返ってこなかった。それこそが答えなのかもしれない。簡単に口にはできないという答え。推測でしかないので確かではないが。
「そう、さすがハカセ」
 訊ねる余裕があったことに驚いた。多くの人と同じように自身も遭遇した時は必死だったというのに。
「夢だけの者なのか目覚めの世界の誰かなのか別の存在なのかは分かりませんが、面白いのが一番と言っていました。それが言葉通りの意味以外に何かあるかもしれません。そして彼の行動にも何かあるのかもしれませんが無いかもしれません」
 彼の答えから何かを導き出そうにもあまりにも手掛かりが少なすぎる。
「この世界は有り得ないことが多く存在するからどちらでも納得できると」
 どのような答えでも納得できる。この世界はそういう風にできている。
「そういうことですね。一番は本人に話してもらうのがいいのですが」
 望みの少ないことを口にする。 
「そうね。解決したと聞いたけどあまりにも拍子抜けするほどあっさりだったもの。この話はここまでにして」
 ローズは内心ハカセなら口を割らせることができるのではないかと思ったが、言葉にはしなかった。ローズはいつも抱いては口にしない疑問が強くなってしまう。一体ハカセが心怯えるものは何なのかと。
「最近、懐かしき涙に出会って来たの」
 歪みの者の話よりはずっと楽しいつい最近出会った出来事を話した。
「どうでしたか?」
 興味深そうに感想を訊ねる。
「胸が締め付けられるほど懐かしくてそれを言葉にするのが難しいほど」
 あの時感じたことを言葉にするが、どれも足りず不適切に思えてならない。
「そうですか」
 言葉は足りなくてもとても感動したことは伝わった。
「その時に耳にした音は幻に感じるけど溢れた感情は確かなもので」
 確かに心に響いた音を感じたのは幻ではない。今でもその時の感情を思い出すことができるのだから。
「それは素晴らしい出会いでしたね」
 楽しそうに話すローズに聞いている方も楽しくなる。
「えぇ、とても。まだ残っているかは分からないけど、よかったら」
 スーツケースから例の小瓶を取り出そうとするが、察したハカセの言葉で動きを止めた。
「今回はその心だけで十分です。少し忙しくなりそうなので」
 いつもなら受け取るのに珍しくローズの申し出を断った。
「そう、残念。もうそろそろ」
 本当に残念そうにしながらも詳しくは訊ねずに立ち上がった。
 話すことも話したのでもうそろそろ自分の道に戻る必要がある。
「また会う時まで無事で」
「えぇ、お互いに」
 二人は互いの無事を願いながら変わりない別れをした。
 
 もう少ししたらお昼がやって来る道をゆっくりと歩いていたローズはふと思い出した。
「……あの本、どんな本だったんだろう」
 感動を伝えたくてすっかり忘れていたが、キッドが渡したのはどんな本だったのだろうか。見ていた自分が感じたのは重々しさだけで詳しくは知らない。
 今度訪れた時にでも教えて貰えばいい。
 ローズはしっかりとした足取りで旅を続けた。
 
「さてと」
 一人になったハカセはゆっくりと紐を解き、布から本を取り出した。
 革製の表紙には題名や著者名は一切無く、分厚い。
 本を開いて中身を確認してみるが、穏やかな顔が一瞬曇り、本をすぐに閉じてしまった。
「……本当にキッドは買いかぶり過ぎてる」
 本をテーブルに置いてため息と共に困ったような呟きを洩らした。
 この後、今日一日貰った本を開くことはなく、元通りにして片付けてしまった。
 ハカセの予想は的中したということだろう。
 その本よりも気になることはいくらでもある。時間はそのために使うのが一番である。
 その一つが、
「……ニコルは大丈夫だっただろうか」
 親しい者の安否。
 ハカセはゆっくりと動き出した。
 ちょうど用事もあるので手紙ではなく会いに行こうと。
 その日のうちにハカセは白歴を出発した。
 八日後に辿り着き、ニコルの無事を確認してほっとすると共に新たな出会いを得る。