第1章 懐かしき影
 
 
 爽やかな朝、風と共に海から潮風が運ばれて来る。
 天にも地上にも青色が広がり、心なしか陽気になっていいことがあるような気がしてくる。
 ここは海人の国と呼ばれている秘石加工でにぎやかな国の一番上にある場所、水蓮花と多くの人々に呼ばれている所。長年世界中で使われ続けている地図ではエクレセポと表記されている。
「相変わらずにぎやかだなぁ」
 13歳ぐらいの外見をした少年が呟いた。
 彼の緑の瞳は通りを歩く活気に満ちた人々を映していた。
 この世界は外見と中身が必ずしも一致する世界ではないが、街のにぎやかさはどこでも変わりない。
 特にこの街は水の民しか扱えないと言われている水の民の至宝の加工技術調査でにぎわっている。
「久しぶりにミュアにでも会ってみようかな」
 この地で頑張っている知り合いのことを思い出し、とても会いたくなった。
 最後に会ったのはあまりにもひどい状況だったので余計に顔を見たくなった。
 
「……いるといいんだけど」
 目的の家へやって来た。
 小さな家のチャイムを鳴らすが、誰も出て来ない。
「誰もいないのかな。前、会った時は鏡の呪いでずっと意識を失ってたけど、もしかして」
 嫌な予感がする。知り合いはかなり前にレリック家という呪術師の屋敷に保管されている鏡を調査しに行き、そのまま呪いにかかってしまったのだ。幸い秘石使いだったため死に至ることはなかったが、意識は戻らず誰もが心配していた。
「……どうしよう」
 嫌な予感とどうしたらいいのか分からず、言葉を洩らしてしまった。
 途方に暮れていた彼の背後から明るい少女の声がしてはっとしたように振り向いた。
「ナディ!!」
 声をかけた人物は、15歳ぐらいの外見をした茶髪に深緑の瞳を持った少女だった。胸には光の加減で様々に輝く秘石があった。
「ミュア、目が覚めたんだね。よかったぁ。誰も出て来ないからもしかしたらって思って」
 嫌な予感が外れ、ほっとした。そして、再び言葉を交わすことができたことを喜んだ。
「うん。心配をかけてごめんね。中にどうぞ」
 にっこり笑ってナディことナディリアスを家の中に招いた。
「お邪魔します」
 ナディは聞きたいことを胸に潜めながら家に入った。
 
 案内されたのは小さいながらもきっちりと片付けがされている居間だった。
「元気そうで良かったよ。それで今は?」
 とりあえず、近況を訊ねる。まずはそれからだ。
「変わらず秘石使いとして頑張ってるかな」
 胸元のペンダントに触れながら答えた。毎日秘石使いとして様々な秘石を調合したりして人々の役に立っている。
「……何とか水の民としての技術をみんなに広めることはできないか考えてる。でも、なかなかみんなの反対の気持ちを変えることができなくて」
 水の民、水辺を生活の場として選んだ長命な民。下半身が魚のヒレになったりし、秘石の加工技術に優れているが、最近はあからさまにその腕を披露することはない。技術が盗まれたり何か悪いことに利用されることを恐れ、裏でひっそりと活動している。
 ミュアはそれが嫌だった。水の民の至宝を使えば、もっと多くの人の役に立てることは明白なのにそれが堂々とできないのが辛かった。
 しかし、今の彼女は以前の思い悩んでいた時と違って何とかなるだろうという希望に満ちた明るい顔をしていた。
「大変だね」
 ミュアの異変を嬉しく思った。
「いつ見てもその指輪は綺麗ね」  
 ナディの左手の人差し指に輝く指輪に目を向けた。光に照らされても色が変わらない秘石。その指輪も彼女のペンダントも水の民の至宝である。彼女は自分が何者かを示すために身に付けているが、ナディは違う。
「うん。これは僕の一番大切な人が加工してくれた物だからね」
 嬉しそうに言った。
 指輪を見る度にあの美しい歌姫のことを思い出す。彼が身に付けているのは水の民の友として彼らを忘れないためと何より大切なあの人のことを忘れないためである。
「それで、何があったんだい?」
「実は……」
 ミュアが話始めたのは、意識を失っている間に見続けていた夢のこと。水の民と他の人々が楽しく暮らす街。青色の美しい世界。自分が望んだ姿。そこに現れた二人の人物。一人は12歳ぐらいの外見をしたケイと名乗る者、もう一人は6歳ぐらいの外見をした人物。
「ハカセと名乗っていて私が歌ってた水の民と人が友人になる歌を知ってて私の願いは望みがあると言ってくれて」
 優しく自分に笑むあの顔、心からの励ましの言葉を思い出す。あの人が自分の夢に入って来なければ今も眠り続けていただろうと感謝の言葉をいくら口にしても足りない。
「……本当にハカセと名乗ったの?」
 何か思うことがあるのかナディは確かめるようにミュアにハカセのことを訊ねた。
「夢だから現実とは違うかもしれないけど。そう言ってた」
 ナディの必死の様子に眉を寄せながらもう一度答えた。
「……ハカセが」
 今度は自分に呟くように言葉を吐いた。
 その様子に何かを察したミュアは様子を窺うように言葉をかけた。
「……知り合いに歌を教えてもらったと言ってたけど。もしかして」
 世界は広いようで狭いのでそういうこともあるかもれない。とくにナディのように様々な場所を歩き回っているならば。
「そのもしかするかもしれない。僕の知り合いのあの人なら有り得るから」
 こくりとうなずいて答えた。思い出すのはあの柔和な笑顔と優しい言葉。あの人だとすれば本当に水の民と縁があると少し笑った。
「もしそうだったら。私は元気でやってるとお礼を言って欲しいな」
 ずっと言いたかったことをナディに託す。きっと会いに行くだろうことはナディの表情から分かるから。
「うん。言っておくよ。それじゃ、また」
 うなずき、ミュアの言葉をしっかりと心に刻み、別れを言った。
 もうあの人に会いたくて仕方が無い。
「気をつけて」
 部屋を出て行くナディを見送った。
 見送ってからミュアは自分の日常に戻った。忙しい秘石使いとしての日常に。
 
 急ぐことではないが歩みが自然と速くなる。
 青の村に案内してから随分経つ。何かと忙しくて会うこともできなかった。会おうという考えも浮かばなかった。元気にしているのだろうか。また何かに出会っているのだろうか。この世界は不思議に満ちているから。
 ナディはいつも以上に楽しそうに旅の道を急いでいた。
 
 ちょうど、歴史の大家が名前を与えられなかった遺跡の前に立っている時だった。