第5章 青の村へ
 
 
 水華を出発して一週間、途中、森向こうにある街水蓮花に向かう馬車に乗せて貰ったりして森の前に無事辿り着くことができた。
 
「ナディ、案内をお願いします」 
 目前に広がる森に目を向けた後、隣に立つ案内人に声をかけた。
 馬車と別れた二人は森の入り口に立っていた。
「うん、任せてよ」
 どんと胸を叩いてからしっかりとした足取りで森の中に入っていった。
 ハカセはそれに続くように歩き出した。
 
 二人の歩く道は公道として整備されている道ではなく、獣道だった。
 見上げる空は高く伸びる森の葉に覆われ、隙間からしか見えない。
 それ故、降り注ぐ太陽の光もわずかで少し暗い。
「……夜になったら休もうか」
 ナディは葉の隙間から覗く空を見上げながら後ろを歩くハカセに言った。
 空は少しずつ青からオレンジに染まり始めていた。
「そうですね」
 ハカセも同じように空を見上げてうなずいた。
 夜になるまでできるだけ進み、目的地に急いだ。
 急いでも夜が来るのは変わらず、二人は休まなければならなかった。
 
「明日は朝一番に出発しようか」
「そうですね」
 二人は手持ちの携帯食で食事を済ませ、これからのことを二つの灯りを囲んで話していた。
「……休ませて貰いますね」
 しばらくしてハカセは明日のために体を休めることにした。
「うん、おやすみ」
 灯りが一つになり、あまりにも静かな闇の中、ナディはぼんやりと自分の灯りを見つめていた。
「……元気かなぁ」
 考えるのはこれから会おうとしている友人達のこと。こんな闇の中で考えることはいつも暗いことばかりになってしまう。友人達はまだいるのかと。
「……あぁ」
 ため息をついて暗い考えを振り払おうとするが、消えずに心に残る。重い気持ちになった時、ゆっくりと唇が動き、歌が紡がれた。
 優しくも悲しい旋律、遠い頃に消えた言葉で紡がれる。
 その歌は眠りに入りつつあったハカセの耳に入り、目を覚ませた。
「……ナディ」
 ゆっくりと体を起こしてぼんやりと歌を口ずさんでいる少年を見た。
 手元の灯りをつけることも忘れてじっと歌に聴き入る。
 歌い手は観客がいることも知らずにひたすら歌っている。 
「……いい歌ですね」
 歌が終わったところでハカセは拍手をしながら歌い手に訊ねた。
「ハカセ、起こしてしまったみたいでごめんね」
 我に帰り、拍手をしているハカセにやっと気づく。
「いいえ、それよりその歌は?」
 眠気などすっかりどこかに行ってしまって歌のことに夢中になっている。
「あぁ、この歌は水の民の友人に教えて貰ったんだ。とてもいい歌で何か考え事してると不意に口ずさんじゃって」
 聴かれていたことに少し照れながら答えた。まさか聴く人がいるとは思っていなかったので。
「そうですか。どんな思いが込められているんですか?」
 興味は消えず、さらに訊ねる。
「街に来た水の民が迷子になってそこを助けてくれた人と友人になって楽しく過ごすんだけど、人は不治の病に冒されてしまう。それを治そうと水の民は最高の技術で水の民の至宝を薬として加工して飲ませるんだけど、一時は治ったと思ったら治らず、死んでしまう。水の民は友人を失って悲しんで心さえも無くしてしまう。あまりの悲しみに最後は楽しかった頃の幻を見始めるようになる。そして、その楽しい幻に満たされて眠りについてしまうっていう歌」
 歌の内容を語るナディの横顔がどこか寂しそうに見えた。彼の立場はまさに歌の中に出てくる水の民の友人、通じるものがあるのだろう。
「……眠りにですか」
 歌の最後の表現が気になって訊ねた。
「うん、死んだのかただの眠りなのかは分からないけどね」
 寂しそうな顔は消え、明るい顔で軽く答えた。
「そうですか」
 とりあえず、納得してうなずいた。
「……時はどんなことが起きても巡って来る。それは時に悲しいことだと思うよ。こんな楽しい時間が明日も来るとは限らない。それならこの時で止まればいいのにって」
 ナディはふと胸の内に抱えていたいつもの思いを口にした。水の民の友人だからこそ感じてしまう思い。
「そうですね。しかし、それは考え方次第ですよ。時間が流れるものだったから私とあなたはこうして出会えたんですよ」
 ハカセは柔和な笑みを湛える。その笑顔はナディの切なさを少しばかり和らげた。
「……そうだね。もう寝るよ」
 二人は改めて体を休めた。
 
 翌日の早朝、目覚めるなり二人は朝食を済ませてすぐに出発した。
 二人が目的地に辿り着いたのは三日目だった。
 
「ここが」
 ハカセは周りを見渡しながら言葉を洩らした。
 そのマゼンタの目に広がる景色は、どこにでもある小さな村を映していた。
 神殿のような遺跡が確かに村の奥にそびえ立っているが、辺りは畑や家々がある普通の村。行き交う人々の姿にもおかしなところはどこにもない。一つ挙げるとしたら人々は美しい宝石のついた物を体のどこかに身に付けていることぐらいだろう。
「そう、ここが遺跡、青の都がある村、青の村で地図ではミキシア」
 ナディは村を回しながら答えた。一応地図に記載はされているが、訪れる者は滅多にいない。
「青の村、ですか」
 のんびりとした田園風景にほっとしながらも住人の身に付けている宝石に目がいく。
「うん、多くの住人が水の民。ここを訪れる人は滅多にいない。いるとしても秘石加工の協力ぐらいで。それも水の民と知らなくてただ凄腕の秘石加工職人が多くいるとしか知られていないし。一見しただけじゃ水の民とは分からないしね。まぁ、見分けは水の民の至宝をつけてるかどうか」
 行き交う人々を眺めながら村について話した。ナディはまるで故郷に帰って来たかのようにほっとしているようだった。
「そうですね。それで、これからどうするんですか?」
 案内人にこれからのことを訊ねた。           
「とりあえず、青の姫に会わなきゃね。ええと、スナン!」
 ハカセに会わせたい人の名前を口にしながら行き交う人々の中から訊ねる人を見つけようとした時、知り合いを発見し声をかけた。
「あっ、ナディ」           
 ナディが声をかけたのは一人の少年。10歳ぐらいの茶髪のくせ毛の大きな目をしていた。
「久しぶりだね。えぇと」
 やって来たスナンはナディを嬉しそうに見た後、ハカセに眉を寄せた。
「ハカセと言う者です」
「へぇ、よろしくね。ボクはスナン」
 ハカセはいつもの柔和な笑顔で名乗った。スナンも元気な笑顔で答えた。
「水の民の元気な悪戯っ子だよ」
 ナディが二人の対面に茶々をを入れる。
「何だよぉ。で、何か用?」
 頬を膨らませ不満げにナディを見た。
「うん、青の姫は?」
 ここで声をかけた目的を思い出して訊ねた。
「青の都で最後のお別れをしてる」
 遺跡の方に視線を向けながら少し寂しそうに答えた。
「お別れってまた誰か先の海に?」
 彼の言葉がどういう意味を持っているのかよく分かっているナディは同じく寂しそうに訊ねた。
「うん、エミカとリントにララトが。昨日お別れ会をして今日出発するからそれで」
 うなずき、ナディの質問に答えた。
「そっか。まだいるかな?」
 遺跡の方に顔を向け、ため息をついた。仕方がないことだと理解している。
「たぶんね。寂しくなるよ」
 肩をすくめて答え、寂しそうに答えた。
「そうだね。ちょっと会って来るよ。また、あとで。行こう、ハカセ」
 ナディはずっと静かに話を聞いていたハカセに声をかけて遺跡に向かった。
 スナンは二人を見送った。
 
「近くで見ると大きいですね」
 間近にそびえ立つ石畳の遺跡。珍しくどこも欠損箇所はなく、建てられた当初の姿を保っていた。そのため名前が与えられているのかもしれない。
「うん。さぁ、中に入ろう」
 遺跡との再会に少しだけ浸りながらもゆっくりと遺跡の中に足を踏み出した。
 ハカセはナディに続いた。
 
 遺跡内部はとても静かでただまっすぐの道を歩くだけでよかった。
 二人が辿り着いたのは広間だった。広間の中心には水の民用と思われる水を満たすことができる場所があった。この広間は憩いの場として多くの昔では利用されていたことがわかる。今は水は満たされておらず、寂しい。
「僕達が行くのはまだ少し先」
 ナディは向かいに見える扉を指さしてからまた歩き出した。
 二人は広間を出てさらに歩いたが、すぐに足を止めた。行き止まりに出会ったのだ。
「……ここだよ」
 ナディは慣れた手つきで床石を軽く叩いて確かめた後、手を置いた。
「……呪い、ですか」
 何をしているのか察したハカセは訊ねた。
「うん、呪いを鍵代わりにしてるんだ。さぁ、開いたよ」
 呪いを解いてゆっくりと先へ進むための扉を開けた。
 中に広がるのは下に続く長い階段と足元が僅かに確認できるほどの薄暗がり。
「えぇ、行きましょうか」
 二人はさらに道を進んだ。
 
 下へ下へと階段を進む度に明るさも増していく。静けさは相変わらずだが、不気味ではなく心地よい静けさである。
 
 青の都の一番底では悲しい別れをしていた。一番底は上部の広間と同じぐらい広く、水が満たされていた。所々石畳の床があるが、ここは完全に水の民の憩いの場であった。
 
「本当に行くのね」
 腰まである美しい青銀髪の22歳ぐらいの白皙の女性が惜しむ声で言った。
「うん、向こうでリントとララトと待ってるよ」
 水に浸かっている三人の内一人の女性が元気に言った。
「無茶をしないのよ、リント」
 少し心配を含んで青年に言った。
「分かってるさ」
 青年はやれやれと言ったように答えた。
「リント、エミカ、行くよ」
 長髪の女性ララトが二人に声をかけ、水の中に潜った。
 ここに満たされている水は海水である。一番下に水を入れるための左の門と水を逃がすための右の門がある。水をためたり抜いたりする時は門の開閉で行っている。通常は両方の門を閉めて憩いの場を維持しているが、旅立ちの時は両方の門を開け、水量の変動を維持している。旅立ちの者が右の門を見送り人が左の門を最後に閉めて旅立ちは終わる。
 見送りの女性が仲間が去った先を悲しげに見つめながら左の門を閉めて陸に上がると見覚えのある少年がそこに立っていた。
 
 二人の旅人は水から姿を現した美しい女性を迎えた。
「やぁ、青の姫」
 ナディは陽気に手を上げて挨拶をした。
「……ナディ?」
 思いもよらぬ訪問客に思わず聞き返してしまった。
「うん、マズイ時に来たね」
 スナンの話を思い出して少し陽気さを抑えた。
「いいえ、大丈夫よ。こういう別れはいつものことだから。それよりお客さん?」
 気遣い無用と言いながらも悲しさが消えない表情だが、ハカセの存在に気づき訊ねた。
「うん、ハカセだよ」
 ハカセが名乗るよりも早くナディが紹介した。
「よろしく、私はライデシアンよ」
 歓迎の笑みを浮かべて名乗った。さすがに客の前で悲しい顔をするわけにはいかないので。
「えぇ、よろしくお願いします」
 ライデシアンの笑顔に答えるように笑みを浮かべた。
「……珍しいわね。あなたが誰かを連れて来るなんて」
 本当に珍しそうにハカセを見てからナディに訊ねた。
「とても縁を感じたから。それで、僕の家はまだある?」
 ハカセと出会った時のことを思い出しながら答え、肝心なことを質問した。
 訪問したのはいいが、休む場所がなければ意味がない。
「えぇ、あるわ。いつでも使えるわ」
「ありがとう」
 ライデシアンの答えに嬉しそうに礼を言った。
 水の民の友である彼はこの村に家を持っている。旅ばかりで戻ってくることはほとんどないが。
「……少し外を歩いてもいいでしょうか」
 ハカセは二人の話したそうな空気を察し、席を外すことにした。
「うん、いいよ。あとで捜しに行くよ」
 ハカセの気遣いに感謝しながら見送った。
 
「……大丈夫かい?」
 二人になるなりナディは気遣いげにライデシアンに訊ねた。
「えぇ、大丈夫よ。ただ、寂しくなると思って。ここのところずっと別ればかりだったから。疲れたのかもしれない」
 寂しく言いながら、床に腰を下ろした。
 すっかり別れの場となっているここも昔は水の民の憩いの場としてにぎわっていた。それも今では記憶だけのものとなっている。
「そっか。ごめんね」
 切なげな横顔に思わず謝ってしまう。
「どうして謝るの?」
 不思議そうに謝る理由を訊ねた。
「辛い気持ちに満たされている時にいつもいなかったから。せっかく君と出会ったのに何もしてあげていないから」
 彼女の隣に座ってため息を洩らしながらこれまでのことを思い返していた。旅ばかりをしてここに戻って来たのも本当に久しぶりである。こんなにも別れが多いことになっていたとは思いもしなかった。
「そんなことないわ。あなたから旅の話を聞くのが一番の楽しみなのよ」
 ナディの後悔の言葉を否定した。
「……大したことないよ。一番大事なものの前ではね」
 じっと深い海色の瞳を見つめながら言った。確かに旅は大切だが、それよりも大事なものがある。ライデシアンやスナン、水の民達がナディにはいる。
「ありがとう。だからって旅をやめようだなんて考えないで。私達はあなたを縛るつもりはないんだから」
 優しいナディの考えることはよく分かる。もしかしたら自分達のために旅をやめてここにいようとするかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。大切なナディの楽しみを奪いたくはない。
「……ありがとう」
 ライデシアンの優しさに思わず礼を言った。
「さてと、ハカセを捜しに行って来るよ」
 立ち上がり、明るい笑顔を青の姫に向けてから広間を出て行った。
「えぇ」
 うなずき、去って行くナディを静かに見送った。
 
 青の都を出たハカセは村を歩いて回っていた。
 田園風景が広がり、静かで別の時間が流れているように感じてしまう。
「……なかなか静かな所で」
 すっかり散歩を楽しんでいる。
「ハカセ!!」
 散歩を楽しんでいたハカセの耳に呼びかける声がして足を止めて振り返った。
「僕の家に案内するよ。今日はそこで泊まったらいい」
 ハカセに追いつくなり、一番に言ったのは今夜の宿のこと。
「えぇ、是非お願いします」
 柔和な笑顔で答えた。
 二人はナディの家へと向かった。
 
 ナディの家は青の都から少し離れた所に建っていた。
 それほど大きくはないが、住むには不便がないようになっている。
「ここが我が家だよ」
 少し嬉しそうにハカセを自宅に案内した。水の民以外の客人を招いたのは今回で二人目である。一人目はもうこの世にはいない青年である。
「なかなかいい家ですね」
 家を見上げながら普通の感想を口にした。
「まぁね。どうぞ」
 扉の鍵を開け、客人を招いた。
 二人は中に入り、ナディの案内で進んだ。
 
 ハカセが案内されたのは台所と居間が一緒になった部屋だった。部屋は埃や塵一つ無く清潔だった。この村の人々がナディがいない間もきちんと掃除をしてくれていたのだろう。
「さてとご飯はどうしようか」
 居間を見渡しながら困ったように言った。よく考えると料理をする道具はあっても材料はないのだ。いつもいつも旅暮らしでここに帰って来るのは本当にたまになので。
「お客様みたいですよ」
 鳴り響くチャイムが聞こえていないナディに声をかけた。
「ちょっと待ってて」
 声をかけられたナディは急いで玄関に行った。
 玄関から戻って来た彼と共にライデシアンが現れた。
「食事がまだじゃないかと思って来たわ」
 にっこりと二人に言う彼女の手にはたくさんの材料があった。
 すぐに彼女は台所に立ち、ナディも彼女の隣に立って手伝っている。ハカセは椅子に座ってそんな二人を眺めている。手伝おうとしたのだが、客人だからと止められたため。
 
 料理が終わって食事となった。
「ところで、本は見つかったのかしら」
 食事をする二人を眺めながら思い出したようにある質問を口にした。
「まだだよ。なかなか見つからなくて」
 ナディは少し残念そうに答えた。
「そう、残念ね。肩を落とさないでね」
 励ましながら聞かない方が良かったと後悔するが、ナディはいつもの明るい顔で彼女に言葉をかけた。自分を気遣っていることがとてもありがたく感じる。
「うん、ありがとう」
「それじゃね」
 ライデシアンは食事を用意して聞くことも聞いてから出て行った。
 
「ところで本というのは?」
 ハカセは二人になるなり気になることを訊ねた。
「コリンさんの恋人が書いた本なんだ。作家とかでなくて生きてる証に本にしたいということだったから、親しい人に渡す分しか本にしない予定だったんだ。でも原稿が書き終わってすぐに恋人が亡くなってしまって、どうすることもできずにしまい込んでいたんだって。それをコリンさんが本にしたんだけど」
 事情を知らないハカセに簡単にコリンから聞いた本の内容を話した。
「あなたにも本を渡すと言っていたんですね」
 事情から何が言いたいのかを知り、話を促す。
「うん、知り合ったお礼にって。でも、会ったのは制作前と制作中に最後に終わる頃に会った時は病気になっていて。それが最後だった。次に会った時には家も何も無かった。本がどうなったかも分からない」
 思い出すのはベッドにいる苦しそうな笑顔を見せる知り合いの姿。元気な姿を見たと思ったらまさかと信じられなかったこと。
「そうですか」
 昔を思い出して悲しげな顔をしている彼にかける言葉が無く、当たり障りのない言葉を口にして黙った。
「うん、きっと本は出来たんだと思うんだけど、時間も経つから行方が分からない」
 本が出来たかどうか彼から聞いた訳ではないが、ナディは信じている。本が出来上がったことを。だから、今必死に探しているのだ。その本だけがコリンと繋がる唯一の物だから。
「見つかるといいですね」
「うん、本当に」
 多くの人が口にする常套句にいつものようにうなずくナディ。
 この後もたわいのない話をしながら食事を続けた。
 
 夜もすっかり深まった頃、ハカセはふと目を覚ました。予想外の出会いに興奮する心を落ち着かせるため外の空気を吸いに散歩に出た。
 
 星か燦々と輝く中、村は静かで誰一人としていない。しかし、寂しさはなく逆に落ち着く。ハカセは青の都に向かった。
 向かうにつれ、微かな歌が聞こえ、だんだんと大きくなる。
「あれは」
 青の都に辿り着き、歌い手を知る。青の姫が夜の闇を見つめながら静かな歌を歌っていた。
「……別れの歌、ですか?」
 ハカセは歌が終わってから声をかけた。 
 聞いたことのない言葉だが歌の雰囲気でどのような内容なのかは感じることができる。
「あら、ハカセ。こんな時間に」
 いきなり声をかけられて驚いた。まさか観客がいるとも知らず、歌の世界に入っていたから。
「少し寝付けなくて」
 彼女の隣に座りながら理由を話した。
「そう、この歌は水の民が仲間と別れて先の海を目指すという」
 ちらりと座るハカセの方を見てから少し寂しそうに歌の内容を話した。
「そうですか」
 うなずき、歌姫と同じように星々が輝く夜空を見た。
「あなたは先の海は存在すると思う?」
 知的な横顔に思わず、聞いてしまった。仲間の誰にもしなかった質問。自分の胸に宿る先の海に対して疑問。
「……この思い人の世界は不思議なことばかりですからね。見たままのものが必ずしも中身とは限らない世界ですから分かりません」
 笑みを浮かべ、不安な顔色の彼女を見た。星々と月で彼女の表情がよく分かるが、はっきりと答えることはできない。
「そう。私は存在していると信じてる。そこは苦しみがなくただ悦びだけが存在している水の民の楽園だと」
 望んだ答えではないが、ハカセの考えを知るには十分でぼんやりと遠くを見た。その先に楽園でもあるかのように。
「……別れが多いとしてもそれだけではありませんよ。私はあなた達やナディに会えてとても嬉しく思います」
 遠くを見つめる姿があまりにも悲しそうに見えたのかハカセは慰めや励ましとなるような言葉を彼女にかけた。
「ありがとう。そうね、もしかしたら明日、何かいいことがあるかもしれないものね。希望かしら、そういうものは持っていなきゃってことね」
 少し元気になった。まさか、初めて会った者に励まされるとは思いもしなかったが、嬉しかった。
「その通りだと思いますよ」
 当然だと表情でうなずいた。
 この後、少し話してからハカセは青の姫と別れ、再び眠りに就いた。
 
 翌朝、昨日と同じようにライデシアンが朝食の準備のために現れた。
 今日は彼女だけはなくスナンが一緒だった。朝食を終わらせても二人の水の民はまだいた。
「もう、ここを出て行くんでしょう」
 ライデシアンが一番に口を開いた。
「うん、お別れに行こうと思ってたけど。分かっちゃったかぁ」
 別れだというのにあっけらかんと言うナディ。これが今生の別れだとは思っていないからだろう。またいつでも会えると。
「えぇ、お見通しよ。また会える日まで元気で」
 寂しさはあれど彼から旅生活を奪いたくない彼女は笑った。悲しそうにすれば優しい彼は旅をやめてここにいると言い出すから。
「うん。ライデシアンもスナンも」
 彼女の心を知るナディも寂しさを抱きつつも彼女の思いを汲み取るために明るく振る舞う。
「ナディもね」
 スナンは少し寂しそうにした。何かと言いながらもナディのことは大好きなのだ。
「ハカセもお元気で。またいつでも来てちょうだい」
 最後に初めて知り合い、昨夜の話し相手になってくれた旅人に親愛と惜しみの言葉をかけた。
「はい。また」
 ハカセも惜しみが滲む言葉で答えた。
 別れを済ませた水の民は家を出て行った。
 その後、旅人達は村を出て水華を目指した。
 来た道を辿る。
 
 二人の旅人は来た道を辿って白歴に戻った。青の村を出発して二週間と三日のこと。
 別れは爽やかな朝の光を受ける港だった。
 
「それじゃ、またね」
「えぇ、お元気で」
 再会ができることを思いながら互いに別れの言葉をかけ合って別れた。
「ふぅ」
 ハカセは長旅が終わったことに安心し、思わず息を洩らした。
 その時、知った声が背後からして振り返った。
「ハカセ」
 いたのは歴史の上を歩く者だった。
「キッド」
 ハカセは振り返りざまに声の主の名前を言った。
「面白い物語を持って来たよ」
 そう言ってキッドは鞄から一冊の本を取り出した。
「……これは」
 差し出された本を手に取り、じっくりと見る。
 青色の表紙にタイトルには『青の民』とあった。
 なかなか厚みのある本である。
「面白そうでしょう。それじゃね」
 キッドはハカセに挨拶する暇さえ与えず、いつものように忙しそうにどこかに行ってしまった。
「本当に忙しい人」
 消えて行く後ろ姿を見送りながら呟いた。
「もしかして」
 注意は再び本に注がれた。さらなる偶然の予感が胸によぎり、ゆっくりと表紙を開く。
 内容はハカセの思っていた通りだった。
 青い海と水と戯れる水の民。天に響く美しき歌姫の調べ。儚さと美しさを湛える世界。全てはナディから聞いた通りの物語。
「これは」
 ハカセは本を持ったまま駆け出した。一縷の望み、ナディに会えることを願って捜しに行った。
 どこにもいない。街中を捜したが、影の一つさえない。
 ハカセはどうすることもできず、自宅に戻った。
 
 自宅に戻るなり、本の美しさとはかけ離れた粗雑な部屋で呟いていた。
「もう少し」
 テーブルに散乱している紙の上に本を置いた。
 これほどまでにやりきれないと思ったことはない。もう少しキッドが早く来てくれたら、もう少しナディと話をするなり引き留めていたら、いろいろ考えてしまう。
 考えても無駄なことだと知っていてもたまらない。
「とりあえず」
 ため息を洩らした後、椅子に座って本を開いた。
 悲しいことに本にはとても興味がある。まずは読んでから先のことを考えることにした。
 本に心を呑み込まれたハカセは一日で読んでしまった。
 そして、近くの本棚に大切に収めた。
「これからどうしよう」
 本をどうするか考えなければならない。再びあの村を訪ねるのか本を送るのかそれとも待つのか、方法はいくらでもある。ただ、問題は時間だけである。
「ふぅ」
 ハカセはため息をつき、今日は別のことをして過ごすことにした。
 
 この後、ハカセが本に割く時間は失うことになる。様々な語るには多過ぎる出来事に遭遇し、すっかり本は主を待つことに慣れてしまうことになる。
 しかし、巡り合わせというものは必ずあるものである。
 ただ、時間が問題であるだけで。