第3章 溶ける眠り
 
 一体いつ頃から自分はここにいるのだろうか。
 そもそも自分とは誰なのか。ここにいるのがその自分でその自分には名前があったはずだ。
 その名前は何だったのか。そもそも自分はどんな形をしているのだろうか。
 人か獣か物かそれともそれ以外の何かなのか。
 手や足の感覚もない。もしかしたら死んでいるのか。
 ……分からない。いや、分からないと言うよりは覚えていない。覚えていないと言うよりは忘れてしまった。
 どうして忘れてしまったのか。それも分からない。
 そもそもこのようなことを考えているのもその自分なのだろうか。
 それも分からない。時間はどれぐらいだろうか。たくさん流れたのだろうか。それともそれほど流れてはいないのだろうか。
 自分は自分のことを何と呼んでいたのだろうか。
 あたし、ワタシ、私、僕、俺。
 覚えていない。
 あぁ、誰かの声が聞こえる。いや、これは自分の声か。
 いや、違う。遠くから呼んでいる。誰だ。
 心配そうな声だ。自分を知っているのか。
 聞き覚えのない声だ。いや、忘れているだけか。
 何を言っているのかは分からない。
 あまりにも遠すぎて分からない。
 あぁ、声が聞こえなくなった。気のせいだったのか。
 ここにいるのは自分だけ。
 ……ここはどこなんだ。
 
 流れる時間は限りなく長く記憶をも巻き込んで濁っていく。
 何かをどうする方法も無く過ぎていく。
 
 さっきの声は何だったんだ。ここにいる自分を救ってくれる声だったのか。
 何だこれは甘い、酸っぱい。何か食べたのか。
 
 あぁ、眩しい。
 眩しい? この光は何だ。
 
「リーアン、おはようございます」
 溢れる光の中からどこか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 ぼやけた意識と記憶がゆっくりと鮮明になっていく。
「……ここは」
 唇をゆっくりと動かし、言葉にする。口内に心当たりのない甘酸っぱさが広がっている。
「リーアン、大丈夫ですか?」
 優しい目が自分をじっと見ている。安心させるために言わなければ、自分は無事だと。
「……ハカセか。俺は」
 無事を伝えるよりもどうしてベッドの上にいるのかということが気になった。
「メリナの箱で眠ってしまったんですよ」
 ハカセは柔和な笑みで答えた。その答えでリーアンは全てを思い出した。
「あぁ、思い出した。そうだ、鍵をさして回した途端、ものすごい眠気に襲われて」
 浮かれて注意を怠っていた自分の姿を思い出した。本当に軽率過ぎた。
「あなたが眠ってから一週間が経ちました。あなたの頼み通り送る物は送り、箱はあなたが眠りに入ってから四日目に開けることができました」
 ハカセは簡単にリーアンが眠りに取り憑かれてからのことを話した。
「本当か? 中には何が入っていたんだ?」
 何でもないことのように話すハカセに驚き、興奮する。
「それはまだ見ていません。あなたが目覚めるのを待っていたんです」
 早くに開けることが出来ても中身の確認はしなかった。箱の持ち主はリーアンなので彼が最初に確認するのが正しいから。
「……そうか。でもどうやって開けることができたんだ?」
 鍵を使わなければいけないが、使えば眠りに襲われてしまうはずなのにどう見てもハカセは元気そのもの。
「眠気を抑える秘石飴を使ったんです」
 最近、買った物がまさか役に立つとは思いもしなかった。まさにこの時のために用意されていたかのように。
「……秘石飴。もしかして、この甘酸っぱい味は」
 飴と聞いて自分の口の中に広がる心当たりのない味を思い出した。
「そうです。眠ってしまったあなたにも効果があるのではと思いまして」
 あの店の主からは眠気を抑える飴だとしか聞いていなかったが、もしかしたら支配する眠気も追い払えるのではないかと思いつつ真紅の飴を彼の口に放り込んだことを思い出していた。
「……そうか。また、助けて貰ったな。助かったよ」
「いえ、無事で何よりです」
 リーアンは申し訳なさそうに礼を言い、ハカセは笑んだ。
 鏡の街で倒れていたのを助けて貰い、箱で眠ってしまったのを助けて貰って二度目だ。
「さて、さっそく中身を見ようか」
「えぇ」
 とりあえず、リーアンは箱を開けてみることにした。
 ゆっくりとふたに手をかけ、開けていくと同時に中身が明らかになっていく。
 
「……これが中身か」
 中身を確認したリーアンは、喜びでも驚きでもなく妙な声を上げていた。
「……そうですね」
 ハカセの口調は何も変わっていない。
 その箱の中に入っていたのは、粉々になった石。色もどす黒く、どこをどう見ても貴重な石には見えない。見えるのはただのゴミ。
「何だかなぁ。俺ってこんな物のために死にかけたのかぁ」
 一気に落ち込んでしまうリーアン。あの記憶ほどまで溶かしてしまう眠りを思い出して少し身震いした。
「これでも宝石ですよ。ただ、開けたのがメリナに貰ってから随分、時間が経過してしまったから粉々になってしまったんですよ」
 ハカセは、粉々になった石を少し触れながら言った。
「……本当か?」
 信じられないという顔でハカセを見た。
「えぇ、これにそう載っています。彼女が少しばかり細工をしたようです」
 ハカセは箱の側にある閉じた本を手に取り、しおりを挟んでいるページを開いてリーアンに渡した。
「……本当だ。しかし、この本すごいな」
 リーアンは本を受け取るなり綴られている文章を読み込んだ。そこにはハカセが話したことがきっちりと書かれてあった。
「その本、差し上げますよ」
 ハカセは惜しみの無い声で言った。どう見ても自分より彼の方が必要としていることは明らかだから。
「いいのか?」
 本を元通り閉じてびっくりしたように言った。確かにこの本は欲しいが、歴史家であるハカセにも役に立つ物のはず。
「構いませんよ。私は、全部読みましたから」
 いつもの柔和な笑みを浮かべながら答えた。箱を開けても秘石飴は溶けず、リーアンが目覚める間、ずっとメリナの帳簿を読み込んで頭の記録帳に記し切ったのだ。ちなみに飴はまだほんの少し残っている。
「それじゃ、遠慮なく貰うよ。ありがとう」
 リーアンはハカセの好意に甘えることにした。
「いえ、これからどうするんですか?」
 ハカセはふと箱と本を片付けているリーアンに訊ねた。
「少し休んでから店に戻ろうと思ってる。これ以上、店を任せたままにするのはまずいから」
 眠気が退いたら今度は激しい空腹が襲って来た。まずはそれを解決してからだろう。それよりも店に帰るのが少しばかり怖かったりもする。
「そうですか。機会があれば、来店させて頂きますね」
「あぁ、待ってる。それじゃ、本当にありがとう」
 二人はそれぞれ別れの言葉を口にした。リーアンは部屋を出てハカセはそれを見送った。
 
「……少しばかり休もう」
 秘石飴がすっかり消えてしまい、ハカセの体をとろけるほどの眠気が支配し始めた。力を振り絞って寝室に辿り着き、ベッドに倒れ込んだ。
 
 安らかな眠りに就くと同時に友人に出会い、自分が目覚め続けている間に起きた出来事を興味深く聞くことに……。