第1章 鏡の街で
ここは外見と中身が必ずしも一致するとは限らない不思議な世界、トキアス。多くの人は思い人の世界と呼んでいる。そんな世界の中にある周りを大陸に囲まれた島があった。地図ではハクセイユと記された場所で先を見る先見の民が多く住んでいたということで儚い者の国や占い人の国などと様々に呼ばれている島の最下部、南西に位置するホルシアンと地図で記された街があった。人々からは鏡の街とか映しの街などいろんな名で呼ばれている。
「鏡でも買おうかな」
白歴からの来訪者、6歳ぐらいの外見をしたその者は通りに並び続けている鏡を扱う店々に思わず言葉を洩らした。
「……それよりあの噂の鏡でも見に行こうかな。あんまり長居できないし」
ふと何かを思いついたのか来訪者は賑やかな朝の通りを抜けてある目的地に向かって歩き続けた。
来訪者が足を止めたのはどこにでもある小さな家の前だった。
ドアノブには立ち入り自由の札が掛けられている。誰か有名な故人の住まいなのだろう。
「……さて」
ノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開けて中に入った。
中は清潔だが、生活感はずっと前に失われてあるのは静けさだけ。来訪者は匂いの消えた静かな作業場を抜け、奥にある生活空間に移動する。途中に部屋があるが、来訪者は興味が無いのか足を止めることはない。
足を止めたのは、廊下の突き当たりにあるドアの前。ドアには入室についての注意事項の看板が掛けられていた。危険な部屋であることが細かに記されていたが、来訪者は熟読することなく中に入って行った。
室内は天井と床だけの簡素な場所。あるのは三方に掛けられている大きな姿見だけ。
入ってすぐに鏡に視線を動かしたが、視線が最後に行き着いたのは床に倒れている人物だった。
「……大丈夫ですか」
来訪者はうつぶせに倒れている人物、20歳ぐらいの若い男に近づき、声をかけた。
しかし、青年から返事はない。子供は引き寄せられるように青年から鏡の方に顔を向けた。
「……」
数秒の間、鏡を見つめていたかと思うと子供はすぐに青年の方に注意を戻し、もう一度声をかけた。今度は体を揺すりながら。
「大丈夫ですか。起きて下さい」
今度の呼びかけは青年に届いた。
「……ん」
声が洩れ、瞼が震えてゆっくりと目を覚ます。
「大丈夫ですか?」
もう一度、声をかける。
「……あぁ、ここは」
まだ意識が朦朧としているのか発した声はぼんやりとしていた。
「大丈夫ですか? 起き上がれますか?」
目を覚ましたところでもう一度言葉をかける。
「……」
青年は答えず、ゆっくりと体を起こして床に座り込んだ。
「……キルストの工房かぁ」
辺りを見回し、自身がどこにいるのかを確認する。
そして、場所を確認した後に視線を向けるのは側にいる子供。おそらく呼び起こしたと思われる人物。
「君が起こしてくれたのか」
ぼんやりとした意識は明瞭になった。
「えぇ、倒れているのを見かけましたから」
当たり前のことをしたというような何気ない感じで答えた。
「……そっか」
青年はうなずきつつも周りの鏡が気になるのか視線が自然とそちらに向い、目から生彩が欠いていく。
「とりあえず、この部屋を出ましょうか」
様子が変わっていく青年を押しとどめようと少し大きい声を出す。
「その方が良さそうだ」
それほど遠くに行っていなかった意識はすぐに引き戻され、子供に答えてから立ち上がった。
二人は工房の外に出た。
外は相変わらずの賑やかさで時間は朝から昼に移り変わろうとしていた。
二人は工房前にいた。
「改めてお礼を言うよ。ありがとう。俺はリーアン」
彼は礼と一緒に名前も名乗った。
「私はハカセと呼ばれています」
子供も礼儀としていつものように名乗り、ほのかな笑みを浮かべた。
「この街の鏡とか鏡に使われる質のいい秘石を手に入れたくて来たんだけど」
リーアンは簡単に工房に来た経緯を話した。
「あのキルストの作品も見に来たんですね」
ハカセは部屋に飾られていた鏡を思い出しながら言った。
「あぁ、占い人に評判のいい作品を作るキルストの最高傑作が見たくて来たが鏡に惑わされて意識を奪われてしまった」
二人が言葉にするキルストとは鏡職人でかなり前に突然の原因不明の病、様々な症状を生み出す病で亡くなった。彼の病に関しての治療法は秘石服用の一時的な治療しか無いと言われ、完治の可能性は低いとされている。知っている人は知っている病だったりする。
彼は占い人の使う鏡を作る職人として人気があった。澄んでいて秘められたものを映し出すこともできると。おそらく秘石を使っていためだろう。
「……そうですか」
ハカセはうなずいた。自分が訪れなければ彼はずっとあのままだったかもしれない。あの鏡のせいか工房を訪れる者は地元でもあまりいないのだ。キルストが自己を見つめるためとかで作り上げた鏡。ただの鏡ではなく囁くのだという。自身の奥底にある黒々としたものを。普通なら有り得ないだろうが、この世界において有り得ないことなど何も無い。
「君は大丈夫だったのか?」
自分を救ったハカセに訊ねた。よく考えると工房にいたということはこの子供もあの鏡を見ているはず。それなのにまるで平気な様子。気になることこの上ない。
「えぇ。鏡に映って惑わすのはよく知っている自分自身で恐ろしい生き物ではありませんから」
少しばかり鏡に引き寄せられはしたが、囚われはしなかった。どんなことに遭遇しようとも自身としての明確さを持っている。だからこそ人に頼りにされたりするのだ。
「……確かに。良かったら助けてくれたお礼にご馳走させて貰えないか」
ハカセの答えに興味を覚えたリーアンはこれっきりにしたくなかったので食事に誘った。
「……いいですよ」
断る理由は何もないのであっさりと受けた。
二人は近くの食堂で昼食を共にすることにした。
それぞれが注文した料理が運ばれて来てからゆっくりとお喋りが始まった。
「俺は石夜の街で宝石とか秘石とかを売る店をしてるんだけど、君はどこに住んでるんだい?」
とりあえずはどこに住んでいるかを訊くのが当たり障りが無い。
「私は白歴で歴史家をしています」
ゆっくりと食事を口に運びながら穏やかに答えた。
「へぇ、歴史家かぁ」
リーアンは聡明なマゼンタの瞳を見つめながらこんな出会いもあるのだと思った。
「……お店は大丈夫なんですか?」
店の主だと聞いて気になったことを訊ねた。店を経営しているなら自由にどこかに行くことはできないのではないかと。
「頼りになる友人に任せてるから大丈夫。で、俺は何か心吸い込まれる石は無いかと探してる最中なんだ。自分がこれだと思った物でなければ人は買わないもんだから」
今頃、自分の店で友人は不機嫌な顔で店番をしているだろうと考えながら答えた。店に戻ったら何言われるか少し怖かったりもするが。
「そうですか。大変ですね」
「それより君はどうしてこの街に?」
今度はリーアンがハカセに訊ねた。
「私は奇憶の街に立ち寄るついでに訪れたんです」
奇憶の街、地図ではピリカリテと記されているその街は昼夜を問わず明かりを灯し、闊歩する不思議な幻を消し去っている。ただ、特定はされてはいないが、ある日ある期間だけ秘石燃料の明かりでも消すことができない日がある。それが幻の日、特別な日、消えずの日などと呼ばれているものでハカセなどの観光客が楽しみにしている日である。
「へぇ、奇憶の街かぁ。そう言えば、もうそろそろあの特別な日が近いんだっけ。行っても面白いかもしれないなぁ」
石のことばっかりですっかり忘れていた。ここから恐ろしく遠い訳ではないので観光に行ってもいいかもしれない。
その後、二人はたわいのない話をして時間を共に過ごした。
食事を終えた二人は別れの雰囲気を漂わせながら店の前にいた。
「それではまた機会があれば」
ハカセは柔和な笑みを浮かべてからリーアンに背を向け、行ってしまった。機会があれば別れの際に教えて貰ったリーアンの店に訪れたいと思いながら。
「気を付けて」
リーアンは見送ってから通りを歩き始めた。もう少しだけこの街を見て回ろうと思っている。それが終わったらどこに行こうかはまだ決めていない。奇憶の街に行ってもいいかもしれない。
店に帰るのは当分、先になりそうだ。帰ったらひどい目に遭いそうだが、気にすることはない。あの友人はなかなか優しくて律儀だから。
ハカセは幻と共存する街に向かい、リーアンは石を求めて歩き出した。
別々の方向に進んだ二人が再び引き合わせられるとは思いもしていなかっただろう。
この時はまだ……。
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