嘆きの左目
 
 
 外見と中身が必ずしも一致するとは限らない不思議なこの世界。この世界を楽しむ者がいれば苦しみにしか思えない者もいる。
 どんな者でも世界は等しく時間を流す。朝が来て昼が来て夜が来る。
 どこにいてどんなことを抱えていようとも……。
 
「……殺される。殺される」
 粗末な宿の粗末なベッドに横になっていた子供は狂ったように呟き、左目を手で覆う。 それでもわき起こる恐怖は消えない。むしろ強くなっていく。
「殺される。左目に殺される」
 15歳ぐらいの地味な格好をした子供は何度も訳の分からないことを呟き、覆っていた左手の爪を立てて皮膚に食い込ませる。痛みが伴えば少しは治まるだろうと。治まるどころか酷くなる一方。この強迫観念は今に始まったことではない。昔からのもので昔はすぐに治まったものが治まらなくなっている。前は右手が殺そうとしている妄想を抱き、右手を何度も砕いた。そしてその前は左足で大怪我を負わせた。
「……仕事、仕事をしなければ」
 ベッドに横になったまま気持ちを別のものに向けていく。
 次第に少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……」
 子供はゆっくりとベッドから起き上がり、床に置いてある大きな鞄を開けて中身を確認した。
 中に入っていたのは一つ一つ布にくるんで保管している宝石。様々な色艶で形は全て球体である。
「今日はそこそこ売らないとな。死んだ嘆きの宝石ばかりじゃ無理か。生きた宝石はなかなか手に入らないしな」
 中身を確認しながら虚ろに呟いた。子供の言う嘆きの宝石とは秘石を混ぜた特殊な液体と呪術によって取り出した貴重価値の高い宝石である。
 この地、呪術師が多く住まっている呪術師の妖しの都、地図ではパンドリアとある。その都だからこそ存在している宝石でもあるのだ。
「……殺される。何とかしなければ、何とか」
 気持ちは仕事から再び果てなき妄想に戻る。理由無き恐怖、気付いた時には毎日のように何かしらに恐怖を抱いていた。
 左目に手が伸びるが、残った自制心で傷つけずただ目を覆うだけにとどめてそのまま部屋を出て眩しすぎる午後の通りに出た。誰かに助けて貰いたい。もし無理ならば、最後の手段しかない。全てからの解放。
 救いを求める死人のごとく目的を抱き、手段を求めて彷徨った。
 
「退屈な毎日ねぇ、彼の所にでも行こうかしら」
 行き交う人々の間を退屈そうにぶらついている少女がいた。
 外見は6歳ぐらいに綺麗な金髪をおだんご二つと両側を三つ編みという派手な髪型をしており、ピンク色でフリルがたくさんついた服を着ている一見すれば可愛らしいが、よく見たら小悪魔にしか思えない外見。
 彼女はあまりの退屈さに暇潰しをしにいつもの話し相手に会いに行こうと足を進めていた。相手は彼女のことを心底煙たがっているが、気にはしていない。
 歩く彼女の横を多くの人が通り過ぎて行く。そのこと自体はいつもと何も変わらない。気に留める価値もないこと。
 しかし、彼女の横を一人の子供が通り過ぎた瞬間、小さな声が彼女の耳に入った。退屈を消してしまう呟き。
「……殺される? 左目に?」
 小さくても退屈を嫌う彼女の耳にはしっかり入ったようで振り返り、通り過ぎていく者を目で確認した。ふらふらとおぼつかない足取りで歩く小柄な後ろ姿。彼女以外誰もおぼつかない足取りに気を留める者はいないようだ。
「面白いことを呟くわねぇ」
 下唇を舐め、目を爛々と輝かせて後ろ姿を追った。
 
「……殺される。逃げなければ。逃げて」
 先ほどまでは誰かに助けを得たいと呟いていたのにすっかり恐怖に染まり、ただふらふらと目的無く逃げるだけ。左目を覆ったままで。
「あぁ、この目をこの目を何とかしなければ」
 ふらふらの足取りは立ち止まり、左目を覆った手に力を込める。
 左目ばかりに気持ちは傾いていたので自分にかけられた声にもすぐには反応できなかった。
 
 商人を追っていた少女は追いつき、商人の前に躍り出た。
「あらあら、何か面白そうと思ったら当たりだったようねぇ」
 すぐに反応が返ってこなくても気にする様子はなく、逆に楽しそうな様子が強くなる。 左目を押さえる商人を舐め見るその表情には嫌な笑みを浮かべている。
「……?」
 目で自分の前に立つ愛らしい少女をとらえるが、かける言葉はなくぼんやりと見ているだけ。
「あなた、見覚えがあるわぁ。よく嘆きの宝石を売ってる人よねぇ。いかれてるって噂の」
 じっと少女は商人の顔を確認し、何者かを思い出す。
「あんたは確か魔女。呪術師の魔女」
 相手もぼんやりとした目つきながら目の前の少女が何者なのか記憶の底から思い出した。互いに関わり合いになったことは無いが、顔や名前ぐらいは知っている。呪術師魔女は呪いをかけることを愛し、人助けの解呪を嫌い、呪いによって多くの人間の命を奪ったとか様々な場所で噂になっている。
「えぇ、そうよ。呟いていたのを聞いたわ。今度はその左目なのでしょう。前は左足が包帯まみれでその前は右手だったかしら。本当に愉快ねぇ。仕事なんかできるのかしらぁ」
 噂を知っているだろうことに嫌な気分にはならず、覆っている左目に興味を抱いていた。
 魔女もまた商人のことは知っているが、その程度は外見が痛々しい人だということぐらい。当然、名前なんか知るはずもない。互いに顔を見かけるのはこんな明るい場所ではなく、知っている人は知っていて知らない人は知らない場所である。
「……呪いにかかってるんだ。自分は。自分には分からない呪いに」
 相手が呪術師だと知るなり、何とかなるだろうと淡い気持ちで左目を覆っていた手を解放した。自分がただの妄想に取り憑かれているとは思えないし思いたくもない。何かの呪いだと考える方が救いがある。今度は呪いという言葉に逃げた。
「あら、あなたは呪いなんかかかってなんかいなくてよ」
 左目が現れると同時に肩をすくめて商人の逃げ道をあっさりと塞いでしまう。
「……」
 言葉を失い、魔女を見る。凄腕の彼女の言葉に何も言えなくなってしまう。
「良かったら力を貸してあげましょうか」
 困っている商人に小悪魔な笑みを浮かべながら甘ったるい声で助けることを提案する。当然、商人のためではなく退屈しのぎの自分のために。
「力を?」
 まさか相手から協力を口にされるとは思っていなかったので声が少し高くなる。
「そうよぉ。その左目をあなたの望み通り何とかしてあげましょうか、無料で」
 左目を指さしながら甘い声で言う。目を見れば狂気に爛々と輝き始めている。よからぬことを考えているのは明らかだ。それでも商人は訊ねずにはいられなかった。自分を救えるのは彼女ほどの実力者しかいないと思っていたので。
「何とかってどうするんだ?」
「そうねぇ、綺麗な宝石でも作りましょうか。あなたの仕事にちなんで」
 商人の言葉に考える様子を見せるも答えはすぐに返って来たのであらかじめ用意していたとしか思えない早さ。
「……嘆きの宝石か」
 呟き、左手に力を込める。この瞬間も恐ろしい妄想が自分を襲っている。考え込んでいる時間は無い。
「どう? 素敵じゃなくて」
 彼女は善人ではないので心から心配しているというわけではない。ただ、呪術を使いたいだけだ。その証拠に彼女は人助けの解呪はしない。呪いで苦しむのを楽しむのだ。
「……頼む。この左目を何とかしてくれ」
 力ない声で魔女の言葉に答えた。どんな噂があろうとも腕は確かだし、今すぐにも解放されたい。
「えぇ、何とかしてあげるわ。その前に用意をさせて貰うけど」
 口元をにんまりと歪ませた。自分の思い通りになったことがとても嬉しくて仕方が無いようだ。その嬉しさが表情に溢れている。
「あぁ、その準備が終わったら泊まっている宿に来てくれ。妙な場所でされてもまずい」
 嘆きの宝石作成の手順を仕事柄知っているのでどれだけの苦しみを味わうことになるのかも想像できる。一度始めれば動くこともままならなくなることも。
 それなら自分の部屋の方が都合がいい。誰にも知られずに済む上に休むことができる。
「あたしは別にどこでも構わないのだけど。呪術が使えるならねぇ」
 彼女にとって呪術以外どうでもいい。どんな噂が流れようが誰に何を思われようがどうでもいい。呪術の楽しみの前では塵に等しいのだ。
「……とにかく早く来てくれ」
「大丈夫よ。依頼はきちんと果たすわ」
 商人から場所を聞いた後、魔女は準備のために動き出し、商人は自宅に戻った。
 再び二人が会ったのは別れてから数時間後だった。
 
 準備を整えて心躍らせる魔女が再登場したのは粗末な宿の部屋だった。
「入るわよ」
 部屋の主がいることは知っているのでドアを開けてさっさと室内に入った。
「来たか。さっそく始めてくれ」
 すぐに始められるように商人はベッドに座っていた。
「えぇ。まずはベッドに寝てくれないかしら」
「あぁ」
 商人は指示通りベッドに体を横たえた。
「この液体をあなたの左目に注ぐわ。その前に体を硬直させて痛みを麻痺させる呪いぐらいはかけてあげましょうか」
 スカートのポケットから透明の液体が入った小瓶を取り出した。魔女は自分の楽しみのためなら骨身を惜しまない。
「呪いはかけなくていい」
 珍しい魔女の気遣いをきっぱりと断った。
「あら、かなりの激痛だと知ってるでしょう。しかも今回のこれは短時間の完成のために調合したからかなりの痛みよ。あなたの希望通りにするために」
 小瓶を振りながら予想外の答えに少し驚きを見せた。
 これから彼女がしようとしていることはあまりにも酷いこと。手にある秘石で特別に調合した液体で眼球を石化するのだ。対象の生死によって貴重価値や色艶の出来が変わる。
 しかし、今では死体からというのが一般的で嘆き悲しむ人のために慰めとして故人から作り出す。非難の対象にはなるが依頼や裏では今のように生者から宝石を作り出している。知っている人は知っている知らない人は知らないということである。
 注ぐ液体は色艶を与えるだけではなく、調合具合によっては様々な効果を追加することができる。例えば、時間が経つことによって眼球が自然に落ちるようにすること、秘石の炎によって取り出す際の炎からの保護、宝石だけをくり抜く際に傷がつかないように保護することなど、様々なことができる。秘石の調合の腕だけではなくどれぐらい液体を浸透させるかによっても出来上がりも違ってくるので呪術師にとってはちょっとした腕試しになる。
 ただ、対象者の苦しみは凄まじく石化の焼け付くような痛みに声を上げる。声を潰すか痛みを麻痺しない限り、生命の火が消えるまで叫び続けると言う。
「あぁ。しかし、その激痛が無ければこの左目が無くなったことに実感できない」
 自分の商売品なのでよく理解はしているが、そんな痛み以上に重要なことが今はある。囚われている自分の心を解放することだ。そうやって話している間も左目をいじっている。
「……実感ねぇ。まぁ、あたしは構わないけど」
 あっさりと希望通りにすることに決めた。
 自分の呪術で苦しむ姿を見るのが何より好きなので。その辺りが一番の知り合いの呪術師に言わせれば悪趣味らしい。
「それでどうやって取り出すんだ」
 最後に気になることを訊ねた。
「心配しなくてもよくてよ。自然と取れるように調合しているから。それより早く始めましょうか」
 さらりと答え、瓶のふたを取り、目をいじる手を見た。
「あぁ、頼む」
 ゆっくりと左目から手を離し、呼吸を整えた。来るべき激痛のために気を張る。
 左目にゆっくりと液体が注がれる。注ぎ終わり、魔女は手早い動作で瓶にふたをして片付けると同時にハンカチを取り出して左目に当てた。
 商人の目から体中に激痛が広がり、体の内部も外部も全てがひっくり返りそうな痛み。声を上げて堪える限界を簡単に飛び越し、開こうにも左目を開けることはできず、開いている右目には痛み以外周りの風景は映らない。右手はベッドのシーツに爪を食い込ませるが、左目を触りたくてたまらない左手は彷徨い左目をハンカチで覆う魔女の手首を掴んだ。掴むその手には激痛を堪えようと力を込めるため魔女の手首に爪が食い込む。
「あらあら」
 魔女は楽しそうに自分の手首に食い込んだ爪を見た。これほど苦しむ商人は彼女にとっていい暇潰し。
「もうそろそろかしらね」
 魔女は苦しみに声を上げては歯を軋ませている商人の顔を眺めつつも作業はしっかりと続けている。
「取り出しましょうか。あなたの素敵な宝石を」
 魔女は痛みの海に溺れている商人に横向きになることを指示した。痛みで麻痺していながらも意地で従い横向きになった。
「顔をうつむかせてちょうだいな」
 横向きになることで手首が解放された。くっきりと爪跡が残っているが、今はそんなことを気にしている場合ではない。最高の宝石を作り上げるのが今すべきこと。
 商人はゆっくりと顔をうつむかせた。それと同時に左目のハンカチをゆっくりと外す。外したハンカチの上には球体が載っていた。艶やかで漆黒の部分は深く曇りのない輝きを放っている。その輝きは役目を果たしていた時よりもずっと美しく見えた。
「なかなかの品質、これなら島一つ買えるわぁ」
 魔女は手にある宝石を確認しながら自分の呪術に酔った。
 石化によって流れるはずの血も流れずにぽっかりと空洞になった左目に触れた。もう何も無い。自分を苦しめるものは魔女の手にある。
「……これで助かる。これで自由に」
 ぶつぶつと呟くその声にはほのかに安心が見ることができた。もうこれ以上苦しめられずに済む。夜の夢からも自由になれる。
「これをあなたに渡すわ。あたしが持っていても仕方が無いもの。あれば苦しみが取り除かれたことが分かるでしょうし」
 ゆっくりとハンカチに載せたまま宝石となった瞳を差し出した。
「……あぁ。助かった、礼を言う」
 魔女の言葉にも一理あると思い、受け取り一応の感謝を口にした。
「そんなことは構わなくてよ。また何かあれば力を貸してあげるわ」
 ハンカチをスカートのポケットに片付け、邪悪な笑みを浮かべ商人に背を向けて去った。
「……」
 商人は魔女の最後の言葉に不快になりながらも見送った。魔女と関わるのはこれで終わりにしたい。魔女に関わった者が皆思うことを感じていた。
 
 夕方に向かいつつある空の下を魔女はゆっくりと歩いていた。
 珍しく人助けらしいことをした彼女の顔は狂った目で笑っていた。
「ふふ、自由ねぇ。あれで自由になれるなら簡単なことよねぇ」
 嬉しさで口にした商人の言葉を思い出して口元を歪ませた。
 まるで商人の行く末を知っているかのような笑い。
「さぁ、これからどうしようかしら」
 魔女は去ったことに考えを巡らせるのをやめて次の楽しみを探しに行った。
 
 魔女を見送った商人はベッドに座ったまま宝石を眺め回した。
 彼女の言葉通りの出来に驚きつつも自由になったことに安心する。
「……これで大丈夫。これで自由になる」
 呟く言葉とは逆に左手が光無き左目に触れる。安心を確かめるためでも失った悲しみに嘆くためでもなく
「……あぁぁぁ、殺される」
 絡みつく苦しみを取り除くために。
 触れても触れても拭うことができない妄想。原因を取り除いたはずなのに消えていない恐怖。
「……落ち着くんだ。落ち着くんだ」
 左目をポケットにねじ込んでから左腕を掴み、ゆっくりと息を整える。目を閉じて何も考えない。そうすれば少しの間は耐えられる。恐怖は遠のく。
「……」
 商人はゆっくりと立ち上がり、テーブルにいつも置いている箱から包帯を取り出した。よく使う物で切らしたことは一度もない。
 包帯を左目に巻き上げる。
「……これで」
 これ以上、触って爪を立てて食い込ませれば痛みが走り、恐怖を少し遠くするが、それに頼れば自分が壊れてしまう。それを避けるためにも包帯をして守らなければならない。
 少しばかり残った包帯を箱に片付け、代わりに布を取って包帯の上から巻いた。包帯が汚れないように。
「……大丈夫」
 箱のふたを閉めてぼんやりとした足つきでベッドに向かい、倒れ込んだ。
「……大丈夫だ。これで」
 そう言いながらも左手は伸びて布に触れる。
 あれほど迫る恐怖から自由になれると思っていたのに。
 光を失う代償に平安を手に入れることができると思っていたのに。
 何もかもが歪んでしまっている。
 どうすれば楽になれるのか。
「……もう無いんだ。もう」
 自分を震わせる左目は無い。そのことで落ち着かせようとするが、布に触れる手は止まらない。
「……本当に楽になるのは簡単で難しい」
 左腕を掴み、無理矢理に衝動を押さえ込む。
 この手を変え品を変えて襲って来る恐怖から自由になるには命を懸けなければならないのだろうか。命を失えば楽になるのか。その疑問の答えは今の商人には分からないし誰に訊ねても分かりはしない。
 商人はそのままじっとベッドに倒れ込んでいた。眠るでもなく考え事をするでもなく、ただ倒れ込んでいた。
 
 消えない恐怖はこの先もずっとつきまとい続け商人を苦しめ続ける。
 まさに魔女の予想通りに。
 どんなに苦しみが襲おうとも身の回りの世界は変わらない。
 朝が来て夜が来る。痛みを感じ苦しみが這いずっても恐怖に心震わせても変わらずやって来る。
 きっと、明日も……。