歴史の大家と子猫
 
 
 外見と中身が必ずしも一致するとは限らない不思議な世界、トキアス。多くの人は親しみを込めて思い人の世界と呼ぶ。
 ここは左右の大陸に囲まれた島、ハクセイユと地図に記されている場所。先見の民が多く住まうと言われていた名残のためか儚い者の国と呼ばれることもある。
 その国の下部に存在する街、ピリカリテ。その街に住むのは奇特な者だけだと言われるほどの不思議な街のため奇憶の街と呼ばれている。
 
「……本当に」
 道を照らす光もない闇の中、6歳ぐらいの外見をした子供が一人ベンチに座って周りを眺めていた。
 知的なマゼンタの瞳が映しているのはどこにでもある家や店、歩き回る人々。どこにでもある風景である。
「まだ昼だというのに暗いなぁ」
 ぼんやりと視線を空に向ける。空は青いが照らす太陽は見えない。
 視線を空から風景に戻し、またぼんやりとする。ただ、そうしているだけではなく何かを考えている様子だった。右目にしているブリッジ式モノクル(片眼鏡)の奥の瞳が物思いに沈んでいた。
 そうやって考え事をしている子供の耳に陽気な声が入ってきた。
「やぁ。お隣いいかな」
 振り向くとそこにいたのは同い年ぐらいの外見をした少年だった。
 軽装にサンダルを履いていた。艶やかな髪は後ろで一つに結んでいる。最も特徴的なのは色違いの瞳だった。右目が紫で左目が黄色。それだけでこの者が何者なのか分かる。不思議な力を持つと言われている違い目の民である。
「いいですよ」
 訊ねられた子供はちらりと相手の目を見てから穏やかに言った。
 目を見て確認した。この者が話に聞いた人物で間違いないと。
 二つの都で起きた先の事件の犯人であると。
「灯りがないと幻に呑み込まれちゃうのにキミは持っていないんだね」
 この街にいる人が必ず持っている物が見当たらないので不思議そうに訊ねた。
「大丈夫ですから。来た道を辿れば、帰れます。それに今日はあまり役に立ちませんよ」
 ちょっとした散歩のように答えるが、人が聞けば驚くようなことを口にしているのだ。
「そうだね。今日は特別な日だから。でもあるのとないのとは違うと思うけど」
 少し笑いながら色違いの目を不思議な風景に向けた。
 この街には他の街の倍の街灯が建っている。道を照らす訳ではなく、秘石の灯りによってこの街を思い人の世界にとどめとくためである。
 この街には他の世界の一部のようなものが混じって見えるのだ。店や道に人などが見えて触れようとするとすり抜けてしまうが、一度迷ってしまうとなかなか戻って来ることができない。それを追い払うことができるのが、街を守る街灯や手持ちの灯りである。ただ、その風景が何なのか分からないので多くの人は幻と呼んでいる。
 時々、灯りがあっても幻を追い払うことができない時があり、それが何日も続く時もある。以前起きた日に起きることが通例となっているが例外もあったりする。今回は以前が一日だけだったので今日のこの日だけの現象かもしれないということで観光客もいつもより多い。
 とにかくそんな特別な日が今日なのである。
「あなたも灯りを持っていませんけど」
 違い目の子供も自分と同じように手ぶらであることに気付き、訊ねた。
「ボクはこの目があるから大丈夫なんだ」
 人差し指で色違いの目を差しながら言った。
「そうですか。宝石のような綺麗な目ですね」
 目の前の少年が何者なのか知っている子供は納得したようにうなずき、綺麗な瞳を誉めた。
「あはは、ありがとう。名前は何て言うの?」
 恐れられるのではなく、誉められるとは思っていなかったので思わず笑ってしまった。そして、この人が何者なのか珍しく興味を持った。
「ハカセと呼ばれています。一応、歴史家をしています」
 隠すこともなくにっこりと名乗った。
「へぇ、ボクはキャッツ。見ての通り違い目の民だよ。キミはどうしてこの街に?」
 しっかりとハカセの名前を心に呑み込んでから名乗った。
「今日が特別な日ですから」
 ここを訪れている他の観光客と同じ理由を口にする。
「あなたはどうですか?」
 今度はハカセが訊ねた。
「観光かなぁ。星霧街や星夜街に行ったからついでにと思って。この大陸は結構面白いからね」
 キャッツは面白そうに笑いながら答えた。
 彼の言う二つの街、星霧街は地図ではクルンドルと記され右の突き出した島に存在する。占い人が多く住まい、人生に迷った人々がよく訪れる。星夜(せいや)街、星夜(ほしよる)の街とも呼ばれる場所はキラティティスと記され地図では右側の海近くに存在している。星が空や海にも鮮やかに現れ、幻の星が存在しているためそれを求めて人々が訪れると言う。 
「私もそう思います」
 彼の言葉にうなずいた。この街もまた不思議さに満ちて面白いのだから。
「そうだね。とくにこの日はね」
 広がる風景に目を向けながら答えた。
 今日は幻が灯りで消えない。幻の日、特別な日、消えずの日などと呼ばれている今日を楽しむためにわざわざ遠方からやって来たのだ。
「今日は灯りがあっても幻を消すことはできませんから。にぎやかですよ。残念なのは触れることができないぐらいで」
 まるで初めから存在していたかのように幻と現実が同居している世界を楽しげに眺めながら唯一の不満を口にした。
「だね。通り抜けてしまうからね」
 見た目だけは全てが現実にあるかのように見える世界に目を向けながら言った。
「えぇ。この世界は本当に面白いですよ」
 うなずき、笑んだ。ハカセにとってこの街だけではなくこの世界全てが面白いのだ。だから、様々なことに首を突っ込んだりしているのだ。
「この世界かぁ。こんな幻を見ると思うよね。この幻は他の世界の住人なのかただの現象に過ぎないのか。どっちなんだろうって」
 心に思ったことをぽろりとこぼした。彼が求めているものも目の前に広がる風景と同じように近くて遠いものかもしれない。
「そうですね。それがこの世界ですから」
 彼のことを知っているにも関わらず深くは追求せず、ただうなずいた。
「うん。自分達が本当に存在してるのかも疑うぐらいだよ。この世界は」
 話は奇憶の街から自分の抱える呟きに変わっていた。この儚げな風景のせいなのかハカセの持つ柔和な空気のせいかは分からないが、本当にぽろりと言葉が出てしまった。
「そうですね。もし、これが誰かの夢の一部だったり存在していないことだったとしても私がこうしてあなたと話している今はあると思いますよ」
 洩れた言葉はハカセによってすくい上げられた。
「……そっかぁ」
 ハカセの言葉を呑み込み、ぼんやりと風景を見つめる。
 その横顔が遠くを見つめる切ないもののようにハカセの目には映った。
「……何かを求めているのですか? とても思いに沈んだ顔をしていますが」
 ゆっくりと言葉をかけた。ハカセは出会った時から知っていた彼が何をした者なのか。それでも恐れを見せることはなく、ただ優しい笑顔を浮かべるだけ。
「……うん。まぁ」
 気遣いの笑みを浮かべているハカセがあまりにも意外だったのか口ごもってしまった。ハカセが自分の正体を知っているのは違い目を誉めたあの時に気付いていた。それなのにこの人はそのことを一言も口にはしない。どういうつもりかは知らないが。
「何かをするにはそれを思わなければできません。だから、思い続ければ求めるものを得ることもできるでしょうが、無茶なことはしてはいけませんよ」
 事情を知っているハカセは優しい顔のまま忠告的なことを言った。彼のせいで多くの命が失われたことはよく知っているから。
「無茶かぁ。でも思うことをするのが自分を保つためだとしたら。それは難しいよ」
 キャッツは息を吐きながら軽い口調でハカセに反論した。
「人は何かを思うことができますが、そのために考えることもできます。あなたとあなたに関わる多くの人のためにも」
 キャッツが起こした事件を知っているハカセは暗に注意をすると共に気遣いも言葉に含ませる。
「心配してるのかい」
 キャッツは笑みながらハカセに言葉をかけた。自分の正体を知っているだろうこの人が恐れではなく気遣いを見せているのがあまりにも不思議だったから。
「えぇ、こうやって出会ったのも何かの縁ですし」 
 ハカセは恐れることなくはっきりとキャッツと出会ったことを良縁だと思っている。
「……縁かぁ。キミには苦手なものってないの?」
 これまで出会った人とは違った反応を見せるハカセに思わず訊ねてしまった。
「片付けが苦手ですね。部屋を綺麗に出来る人をとても尊敬します」
 ハカセは即答した。頭に浮かぶのは本や書類が散乱している部屋。片付けても数時間と経たぬうちに元の荒れ放題に戻る部屋。ハカセを知る人なら確実に納得する答えである。
「片付けかぁ。面白いなぁ、ハカセは」
 予想外の答えに笑った。もっと普通な答えが返ってくるかと思っていたので。ハカセは少し困った顔でキャッツを見ていた。
「……それじゃ、またどこかで会うことがあれば」
 笑いが収まったキャッツは立ち上がり、別れを口にした。
「えぇ、くれぐれも道を間違わないように」
 キャッツの心に差し込むように力強く言って見送った。
「ハカセも元気で」
 ハカセの言葉をどう受け取ったのかは表情から読み取ることはできないが、ハカセを気に入ったことだけは見れば分かる。また出会えることを願っていることも。
 
「……まさか、こんな所で出会えるとは思わなかった。ばら姫の言葉通りに」
 一人になったハカセは思い出していた。
 レリック家事件の時にローズが巡り合わせの多い自分は事件の犯人と会うかもしれないと彼女が言葉を洩らしていたことを。まさか現実に起きるとは思っていなかったが。
 しばらくしてハカセは裏通りからにぎやかな通りに向かった。
 
「今日は本当に人が多い」
 観光客とおぼしき人々を眺めながら呟いた。呟く自分もまた観光客ではあるが。
 そうやってのんびりと通りを歩いていた時、背後から知った声がして立ち止まった。
「ハカセ!」
 やって来たのはハカセと同年代のような外見をした少女。上品な服装に薔薇の髪留めで金髪の巻き毛を二つに結んでいる。手にはスーツケースが握られていた。
「……ばら姫。あなたも来ていたんですね」
 現れた一番の話し相手にいつものように驚きつつも納得する。彼女、ローズは大賢者でありながら上古の探索者と名乗り様々な場所を歩き回っている。
 そんな彼女が今日の特別な日を彼女が見過ごすはずがないのだ。
「えぇ、今日は特別な日だから。あなたも?」
 楽しそうにうなずき、挨拶代わりに訊ねた。
「はい、昨日から。なかなか面白いですよね」
 ハカセの返事もローズと同じである。
「本当に。それでハカセはまだいるの?」
 うなずきながら周りに広がる不思議な風景に目を向けた。
 ここは裏通りと違って灯りがどこもかしこも眩しいぐらい輝き、その中に浮かぶ幻は裏通り以上に違和感や不思議さを感じる。
「いいえ、一度宿に戻ってから帰ろうかと。もしかしたら明日も続いているかもしれませんが」
 存分に楽しんだハカセはもう帰ってするべきことを考えていた。
「そう、また今度」
「あなたも」
 少し残念そうにしながらローズは別れを口にした。
 ハカセも同じ気持ちだったが、また会うこともあるので笑顔で別れた。
 
 ハカセは一切口にしなかった。この不思議な街で綺麗な瞳をした子猫と出会ったことを。
 話すべきことなのは確かであるが、そうは思えなかった。おそらく多くの人が知らない顔を見たからかもしれない。
 ただ、彼の行いが凄惨であることは確かなのでもう何も起きないことを願って白歴の自宅に急いだ。
 
 自宅ではこの奇妙な街にも負けない幻想を持つ本が待っている。